ヨシュア記講解

9.ヨシュア記9章1節-27節『ギブオン人の服従』

ヨシュア記全体から見ると、ここから新たな主題が始まります。1節冒頭の「ヨルダン川の西側」は、原文では「ヨルダン川の向こう側」とも「ヨルダン川のこちら側」とも訳すことができます。「ヨルダンの向こう側」という表現は、東側から見れば西側になりますし、西側から見れば東側になります。新共同訳は、実際の場所を示すために「西側」と意訳しています。パレスチナは「山地、丘陵地帯、シェフェラ、レバノン山のふもとに至る大海の沿岸地方」という地名によって今や「西ヨルダンの土地」全域が問題になっています。

1,2節が強調しているのは、もはや個別の作戦行動ではなく、総力戦の問題になっているという点です。事実、パレスチナの住民たちは今や「イスラエルと一致して戦う」ために結集している様がここに描かれています。敵対者の全勢力は「ヨシュアとイスラエル」に対抗していますが、本質的にはヤハウエご自身に敵対しています。9章冒頭の二節は、ヨシュア記の構造の中では極めて重要であり、事態は危機的な局面にあることを明らかにしています。

ギブオン人の物語が3節に続いています。1,2節との文脈からは、敵対する統一戦線をどのように突破するかが関心の中心となります。実際、四つの都市(17節、ギブオン、ケフィラ、ベエロト、キルヤト・エアリム)の領土が問題となっています。ギブオンは、最近の発掘調査から、エルサレムの北東に位置する大きな村エル・ジープではないかと言われています。

4,5節にギブオン人の滑稽な振る舞い記されているが、これはアイの場合にイスラエルがとった態度と比較されています。ギブオン人が奇妙ないでたちで何をしようとしたのか、ここではまだ明らかにされていません。

6節において、ギブオン人が「ギルガルの陣営」のヨシュアの下に赴くこの記事は、シケムについて触れた後だけに意外です。さらに7節においては、「イスラエル人」と「ヒビ人」が交渉相手として対峙する様が描かれています。ここに異なる資料の結合があると批評家は指摘しています。

8節において、ヨシュアが交渉の先導者として、「あなたたちは何者か、どこから来たのか」ギブオン人に問い、9節から13節にかけて、ギブオン人の長い説得力のある陳述が記されています。ギブオン人は「はるかな遠い国」からやってきたかの如く語っています。もし彼らがエリコとアイのことだけを語ったならば、その郷土的関心から出たもの判断され、パレスチナ出身のものと勘繰られたことでしょう。その話に信憑性を与える、携えている「食糧」と古びた「服装」によってギブオン人は成功を収めました。

14節の「男たちは彼らの食糧を受け取ったが、主の指示を求めなかった」は、イスラエル人が主の意思を求めることをせず、モーセの従者で主の御心を取り次ぐヨシュアに判断を求めず、独断で行ったことを示しています。彼らは、ヤハウエの口より自分の判断を信じ、ヤハウエの意思を仰がなかったのです。

しかし、15節において、この契約(ベリート、新共同訳は「協定」と訳している)は、ヨシュア自身によって執行され、この決定が全イスラエルの方策であることが公言されています。

16節の「三日後」という言葉に注目する必要があります。イエスの復活は三日目ですが、それは十字架死から三日目で、実際は二晩で、ギルガルからギブオンまでは2日の行軍で楽に行ける距離です。重要なのは、17節において、「ギブオン、ケフィラ、ベエロト、キルヤト・エアリム」の四都市の名があげられていることです。これら四都市の住民は、本来神によって正当に聖絶されるべきものであるべきにもかかわらず、12部族の長たちの誓約によってその聖絶の執行が阻まれました。このため、「共同体全体は指導者たちに不平を鳴らす」(18節)抗議をし、自分たちの義務と正当性を主張しています。そこで長たちは、ギブオン人たちを生かして、「共同体全体のために」(21節)奉仕させようと提案しています。

ここでヨシュアが介入します(22-27節)。ヨシュアは彼らが欺いたことを理由に挙げ、彼らが「呪われて」神の宮に仕える奴隷になることを宣言します(23節)。この場合重要なのは、ギブオン人は聖絶から免れることを欲したが、その代わりに彼らは神の人の呪いを身に受け、神殿奴隷になったということです。いずれにしても、彼らは主の手に帰したことには変わりはないのです。主を欺こうとする試みはそれ自体、最終的には無益な結果となることをこの物語は明らかにしています。イスラエルはまんまと騙されたように見えますが、神ご自身は決して欺かれることはありません。ヨシュアは、「お前たちはなぜ、我々を欺いて、はるかな遠い国から来たと言ったのか。お前たちは我々のうちに住んでいるではないか。お前たちは今、呪われて、奴隷となり、お前たちの間からわが神の宮の柴刈り、水くみが断えることはないだろう」(22,23節)と述べ、神の宮(家)の「僕」とされることを明らかにしています。

ここでは「主の選ばれた所」は、ギルガルの聖所を指しますが、イスラエルにおいて、「主の選ばれた所」は、エルサレム以外にはありえません。ソロモン以来、唯一の神殿があり、ヤハウエの祭壇が存在する場所であるからです。従って、ギブオン人はエルサレムの聖所で就労義務を負ったのであります。しかし、ヨシュアの時代にはまだイスラエルの聖なる場所であるはずのエルサレムを指しておらず、ギルガルの聖所を指しています。

最後に、この物語の持つ神学的意味について考えることにしましょう。この物語では交渉する者たちは「共同体の指導者たち」(部族の長たち)であったり、ヨシュアであったりします。まず「長たち」の判断が結果としてギブオン人を「共同体のために柴を刈り、水を汲む者」にしたかのように見えます。それに対しヨシュアの呪いはギブオン人を「神の家」のための、とりわけ「主の祭壇」のための「奴隷」に格下げしています。誓約は部族の長たちの責任で行われたことになっています。しかし、ヨシュアは「人間的最善」を凌駕する指図を27節において与えています。ヨシュアは物語の前段階では何の関与もしていませんが、今やヨシュアが神の代理人として物語の前面に強烈に現れています。神の言葉は、モーセの後継者、神の人ヨシュアによって受け継がれ、彼を通して神の意思が示されていることを、ここで、この物語が示していることは、重要な転換点になっています。神の人(仲保者)を離れて、神の意思、神の言葉は示されないのです。

旧約聖書講解