ヨシュア記講解

8.ヨシュア記8章30節-35節『エバル山での律法朗読』

ヨシュア記に記されているカナン征服の物語における文脈から言っても、出来事の時間的な順序の問題としても、「エバル山に」主の祭壇を設立したという報告が、この箇所にあることを説明することは困難です。アイ征服の後、エバル山(シケム)でこの儀式を平穏に行い、聖所を設立するためには、イスラエルはアイから北に直線距離で約32キロ移動しなければならないからです。アイとベテルへの道がようやく開かれたばかりなのに、なぜここで突然パレスチナの中央部に位置するシケムに場所が移され、この後、物語が再びベニヤミン族の領地に戻ることになったのかを説明することができないからです。確かに、アイに対する勝利によって、北への道を開くことはできたでしょうが、「エバル山」地方の攻略の報告はこの段階ではまだありません。17章14節-18節における簡単な言及以外に、ヨセフ部族の山地の攻略の記事はありません。このエバル山での律法朗読儀式の記事がなければ、前後の物語のつながりは困難なく読むことができます。9章6節では、ヨシュアと民がギルガルの宿営に帰っていることが想定されますし、アイからほんの数キロ南にすぎないギブオンの住民との協定についての話し合いがなされているからです。ギリシャ語七十人訳聖書は、この物語を9章2節の後に置いていますが、それでも、この文脈における緊張を緩和することに成功していません。この単元が24章と同じ場所での同じ出来事を扱っていることを認めて、24章7節の後に置く現代の注解者もいます。

この記事をこの位置になぜ設定したのか。それは、このヨシュア記の編集者である申命記史家が、この出来事のもつ神学的な意味を強調するためであったと理解するなら、納得できる部分が多くあります。

ここで新たに強調されているのは、イスラエルの行動がモーセからの連続線上にあり神の命令(律法)とすべての民の義務が目の前にあるということです。そして、約束の地カナン征服はイスラエルの強い腕によるのではなく、神礼拝によってもたらせるものであるということで、神の義務の中にとどまる民は成功と存続とを得ることになるだろう、ということです。それは、バビロンによる神殿破壊と捕囚におけるユダ王国の滅亡を知る申命記史家による歴史の評価とイスラエルの回復への道筋を示す神学的な意図から生まれた解釈に他ならないということができるでしょう。

さて、この段落は、エバル山に祭壇が築かれたこと、そこで犠牲がささげられたこと、「モーセが記した教えの写し」が人間の手による加工が施されない自然のままの石に刻まれたこと、律法の言葉「祝福と呪い」を律法の書に記されている通りに読み上げられたこと、等々を報告しています。これらの行為は大部分契約更新の主要な要素であるので、申命記史家が、神の選びの民イスラエルが国家(信仰共同体)再建の困難に直面して苦しんでいる人々を励ますために、イスラエルの祝福の道は、神礼拝によってもたらせること、神の義務の中にとどまる民は必ず成功と存続を得ることを教えるために行った挿入文であるということができるでしょう。

この段落は申命記27章と密接な関係があり、また根本的に、そこで命じられていることに実現を扱っています。申命記27章は、実際には後の時代における新しい共同体の信仰の在り方を示していますので、この段落も文学的に見て新しい時代の問題を扱っていると言えます。

ここで報告されるのは、ヨシュアが祭壇を、申命記27章4-6節に記される以下の仕方で、切り出し以前の石を用いて建設することです。

あなたたちがヨルダン川を渡ったならば、わたしが今日命じるこれらの石をエバル山に立て、しっくいを塗り、またそこに、あなたの神、主のために祭壇を築きなさい。それは石の祭壇で、鉄の道具を当ててはならない。自然のままの石であなたの神、主の祭壇を築き、その上であなたの神、主に焼き尽くす献げ物をささげなさい。
この祭壇建設の規定は古く、契約の書(出エ20:25)に既に見られますが、エリヤもカルメル山に十二個の石で祭壇を築き(列王上18:31-32)、またサウルもサムエル上14:33,35で祭壇を築いています。出エジプト記20章25節では、鉄の道具を用いて石を扱うことがその場所の「神聖を汚す」ものであることが強調されています。しかし、それより重要なのは、神的なものは人間の技巧や関与を除去せざるを得ない、という神学的な理解です。この文脈においてその神学的な認識が強調されていることです。

ベテル(「神の家」という意味がある)には有名の聖所があったが、その腐敗堕落の故に、ひどく批判を受けた聖所であっただけ、神礼拝の挙行によるベテルの占領を記述することは不可能であると申命記史家は考えたのでしょう。しかし、もともとベテルには聖なる石があり、「聖なる石」の伝承がありそれと結び付けて、この現在のテキストがシケムと結び付けてこの位置に置かれることになったと考えられています。神の意思を表現することが伝承者の意思であり、歴史的に起こったことを叙述する意図はなかったということです。

それは、「イエスの生涯」を記述することがヨハネ福音書の関心事でなかったのと同じように、「伝承された素材を神の道と意思を明らかに用いる」ということ以外に、伝承者の関心事はなかったということです。このことに納得すれば、この段落がこの位置にあることが納得できるし、現代を生きるわたしたちにとっても、その歴史の意味を、わたしたちの時代に起こっていることを、信仰共同体としての立場から、理解する道筋を得ることができるのではないでしょうか。

旧約聖書講解