ヨシュア記講解

3.ヨシュア記3章1節-5章1節『ヨルダン川を渡る』

ヨルダン渡河に関する記事は、それが徹頭徹尾ヤハウエの奇跡行為として行なわれたこと、そして、この土地に入ったのは、他ならぬヤハウエご自身であることを強調しています。この出来事がヤハウエの奇跡行為であることは、ヨルダン川の渡河は礼拝式の装いで表現されています。3章5節で民に聖別が命じられ、ヨルダン渡河は聖なる出来事であって、民は神殿での礼拝に参加する時のように、この出来事に参与することが求められています。

定式的な語を繰り返す叙述の仕方は旧約聖書では、決して珍しくありません。創世記12章2-3節では「祝福」という語が五回も用いられています。こうした用法は、救いから遠のいた世界に神が祝福を与える宣言を告知する意味を持っています。このような繰り返しによって、ある特定の事柄が刻印されていきます。それは教育的な意味を持っています。ここでの鍵語は「アーバル」で、22回用いられています。翻訳では「渡る」と訳されています。「アーマド(止まる)」という語は5回用いられ、「渡る」と正反対の事柄が表現されています。

ヨルダン渡河の出来事は主の恵み深き導きの証明として、その重要性は4章23節で回想される葦の海の渡渉と匹敵するものとして叙述されています。ヨルダン川は、東ヨルダンと西ヨルダンの二つの山岳地帯の間にある境界線で、その深い峡谷は、ヨルダン川を越えることが新しい始まりであることを告げています。東ヨルダンの征服は五書に組み込まれていますが、ここでは、ヨシュア記の新たな始まりを告げる意味を持つ出来事として記されています。ヨルダン川の渡河は葦の海の渡渉に匹敵する神学的意味を持つ象徴的出来事として叙述されています。

3章1-2節は、内容的にはこの直前の物語に接続することを示しています。ヨシュアは、「主は、あの土地をことごとく、我々の手に渡されました。土地の住民は皆、我々のことでおじけづいています」(2:24)という報告を受け、シティムを出発し、ヨルダン川の岸に到着し、1章11節以来、再び「民の役人」が働いている姿が描かれています。1章11節は予めこの場所を示し、3章2節は、その三日後のことを記し、2章との記事との整合性がはかられています。

3,4節において主の臨在のしるしである「箱」について言及されていますが、箱は九つの異なった名を持っています。「箱、主の箱、あかしの箱、契約の箱、主の契約の箱、あなたがたの神主の契約の箱、全地の主の契約の箱、全地の主ヤハウエの箱、あなたがたの神ヤハウエの箱」等々。

そして、この段落には二つの特別な関心事が示されています。それは、第一に、箱を担ぐ人々の呼称において表されています。担ぎ手は、「祭司たち」が5回、「箱を担ぐ人々」(3:15、新共同訳は「人々」を「祭司たち」と訳している)が1回、「箱を担ぐ祭司たち」が9回、「レビ人の祭司たち」が1回。箱については、「箱の担ぎ手」が中心的な関心事であることを示しています。第二は、聖なる箱と「民」との間に距離が保たれている点です。定められた距離は二千アンマ(約1キロメートル)で、それは箱の聖性を保つためであり、神の臨在のしるしである箱が民を先導する事実が示されています。神は民のもとに来て導くが、同時に神は人を寄せ付けないほど聖なる存在であることを人間は知らなければならないのです。「イスラエルの聖なるもの」の存在と働きを強調するイザヤの告知や、ルカ福音書5章8節のペトロの言葉もこの延長線上にあります。

5節の「自分自身を聖別せよ」という言葉も、これから起こることが聖なるものであることを際立たせています。この神の祝祭に参加する民は、それに相応しい備えが必要とされています。

ヨルダン川渡河が「箱」から始まるのは、それが主の臨在のしるしである故に、主が先頭になって「渡ること」が結び付けられています。ヘブライ語では「担ぎあげる」と「担ぐ」は同じ語です。それゆえ、箱が担がれる時に主が発動する、という重要な理念がこの語に示されています。

7節は、ヨシュアはモーセの従者(メシャレート)であり、モーセ自身は神の僕(オベド)であったが、ヨルダン渡河においては、モーセの後継者として認定さたことが明らかにされています。しかも、ヨシュアは「全イスラエル」だけでなく、「主の僕」(24:29)であることが認められますが、それは、4章14節で渡河がすんだ後に再確認されています。

しかし、8節においては、ヨシュアはもっぱら主の命令を担ぎ手たちに伝える者としての立場にとどまっています。そして、ヨシュアは主の言葉を告げるために民を呼び集めています(9節)。

「生ける神があなたたちの間におられ」(10節)、「全地の主の契約の箱があなたたちの先に立ってヨルダン川を渡って行く」(11節)、というこれらの言葉は、主(ヤハウエ)は、自らの意志に従って全地を分配し、パレスチナの諸部族を駆逐し、土地をイスラエルに与えることができることを示しています。イスラエルの各部族から選びだされた12人が特別な任務に遣わされますが(12節)、ここではその任務については何も語られていません。

ヨルダン渡河の日付が「第一の月の十日」(4:19)とされていますが、この時期、ヨルダン川は、春の刈り入れの時期を迎え、川の水は堤を超えんばかりに満ちます(15節)。しかし、「全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、ヨルダン川の水は、壁のように立つであろう」(13節)と言われ、「契約の箱を担いだ祭司たちは、民の先頭に立ち」(14節)、その「足が水際に浸ると、川上から流れてくる水は、はるか遠くのツァレタンの隣町アダムで壁のように立った。そのため、アラバの海すなわち塩の海に流れ込む水は全く断たれ、民はエリコに向かって渡ることができた」(15,16節)、と言われています。「主の契約の箱を担ぐ祭司たちがヨルダン川の真ん中の干上がった川床に立ち止まっているうちに、全イスラエルは干上がった川床を渡り、民はすべてヨルダン川を渡り終わった」(17節)のです。

「 民がすべてヨルダン川を渡り終わったとき」(4章1節)、ヨシュアは主の命によって、「民の中から部族ごとに一人ずつ、計十二人を選び出し、彼らに命じて、ヨルダン川の真ん中の、祭司たちが足を置いた場所から、石を十二個拾わせ、それを携えて行き、今夜野営する場所に据えさせなさい」(4章2,3節)という命令を与え、3章12節で予め選びだされていた12人がこの任務を実行しています。ヨルダン川から取ってきた十二の石は、エリコの町の東の境にあるギルガルに立てられますが、「これらの石は、永久にイスラエルの人々の記念」(4:7)となり、「それは今日までそこにある」(4:9)と、この出来事が人々の口から口へと伝承されたものであることを示しています。

そして、「後日、あなたたちの子供が、これらの石は何を意味するのですかと尋ねるときには」(4:6,21)、「子供たちに、イスラエルはヨルダン川の乾いたところを渡ったのだと教えねばならない」と、イスラエルが何時までも覚えなければならない教育的意味を持つ伝承として持っていることが示されています。

ヨルダン渡河の物語は、イスラエルの歴史において三つの意味を持つことを示しています。第一に、ギルガルの十二個の石は、ヤハウエの大いなる業を民に絶えず生き生きと伝えるものであることです。第二に、諸国民の世界へ目を向けることです。事柄はイスラエルの歴史という私的な出来事ではなく、地上の諸国民が観客となる神の大舞台で起こった出来事であることが、「全地の主の契約の箱」(3:11,13)「地上のすべての民が主の御手の力強いことを知るためであり、また、あなたたちが常に、あなたたちの神、主を敬うためである」(4:24)、という言葉において表されています。そして、第三に、諸国民は傍観者ではなく、実際にその出来事に参与するものとなることが示されています。

5章1節では4章24節で全世界について語られていたことが、2章11節との関連でパレスチナの諸国民に適用されています。強力なイスラエルの神とその神に従って土地に侵入した人々によって、心挫けさせる恐怖がすべての王たちに襲った、ということを記し、ヤハウエこそ世界と歴史を支配する主であることを明らかにし、イスラエルにこの信仰に立つべきことを教えています。ヨルダン川という深い塹壕を征服させた神ヤハウエは、また自らの歴史の中に介入し驚くべき仕方で突破口を開かれるお方であることを、これらの物語は示しています。
このヨルダン渡河の物語は、祭司伝承として伝えられ、「第一の月の十日」(4:19)が祭りの時で、ギルガルの聖所において物語られ朗読されたと考えられます。そして、この出来事がその当時から祭りの行進という形で再現されていた、とも考えられます。最も重要なことは、その成立過程で鮮明になっている神賛美であって、神がご自身の民にヨルダン川という深い塹壕を征服させ、また自ら歴史の中に介入し、驚くべき仕方で突破し、未来を開くお方であることを民に示したことにあります。民の歴史を支配し民を導くのは神であることを、この物語を読む者は学ばねばならない、という告知を受けています。

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