ヨシュア記講解

2.ヨシュア記2章1-24節『エリコを探る斥候とラハブ』

2章には、約束の地カナン征服の戦いの最初の地となるエリコとその周辺の土地を、ヨシュアの命令によりひそかに送り出された二人の斥候が探る物語が記されています。二人は、そこでラハブという遊女の家に入り、そこに泊まりますが、その動きを察知したある人物がエリコの王に、「今夜、イスラエルの何者かがこの辺りを探るために忍び込んで来ました」と告げたので、王は人を遣わして、ラハブに、「お前のところに来て、家に入り込んだ者を引き渡せ」と命じますが、ラハブは気転と知恵を働かせて、この二人の斥候を匿い、その危機を脱し、無事その役割を果たすという、ハラハラドキドキする実にユーモラスで楽しい物語が記されています。

しかし、この物語は、1章11節で、「あなたたちは、あと三日のうちに、このヨルダン川を渡る。あなたたちの神、主が得させようとしておられる土地に入り、それを得る」、とヨシュアの命じた言葉からすれば、エリコに斥候が遣わされたこと、三日間、斥候が山に留まった(2:22)、ことを記す2章のこの土地偵察を物語は余計な記事に思えます。むしろ、1章からヨルダン川渡河を記す3章に続く方が、論理的にも、申命記史家の神学から見ても、自然な流れであると考えられます。それゆえ、斥候物語はそれ自体としてどんな意味を持っているのかという疑問が生じます。この問いは、後に取り扱うことにして、先ず、この物語について見ていくことにします。

ヨシュアがいるシティムは、アベル・シティムであると考えられ、そこはヨルダン川を挟んでエリコに向かい合う東ヨルダンの山地への入り口の位置にあります。民数記25章では、そこは民がモアブの女たちと共に罪を犯した場所の名です。エリコは、泉とオアシスのそばにある古い集落で、偵察に適する場所として、この偵察物語は展開しています。

「二人は行って、ラハブという遊女の家に入り、そこに泊まった」(1節)という行為がどういうものであるか、ヘブライ語のシャーカブという語が二重の意味を持つことから理解することができます。8節では、「寝る」(床につく)という通常の意味で語られ、1節では、「泊まる」という意味を有するものとして用いられています。遊女の家は、まさにそのような家であったわけです。しかし、新約聖書マタイ福音書1章5節は、ラハブはボアズの母として証言されています。このように、ラハブは後代の人々から高く評価されています。ヨシュア記における伝承資料は、ラハブとその一族がどのように生き残ったか、ということに強い関心を示しています。

4-11節に記される斥候たちの体験は、「わたしが与えた」(1:2-3)という言葉が真実であることを確認する意味を持っています。二人の斥候が忍び込んだことが、エリコの王に嗅ぎつかれますが、ラハブの気転と知恵によって、王の追跡からうまく逃れることができるこの体験は、1章6ー9節の主の僕モーセの約束する言葉とその信従の視座から見る時、その信仰から後退したヨシュアの命令であり、斥候たちの行動であるという印象をぬぐえません。それゆえ、この物語の伝承は、申命記史家の用いる本来の伝承には属さない、より古い別の伝承に属するという見方が成り立ちます。そして、この伝承は、ラハブとその一族が、イスラエルの侵入によって重大な危機が訪れたことを覚悟し、その侵入により滅ぼしつくされることを免れるためのものであることを強調しています。「主がこの土地をあなたたちに与えられたこと、またそのことで、わたしたちが恐怖に襲われ、…それを聞いたとき、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」(9-11節)、というラハブの言葉がそのことを裏付けています。

神が将来をネブカドネツァルの意のままにさせたことをエレミヤが知る(エレ27:6)ように、ラハブは、この土地の将来にいかんともしがたい決定が下されたことを認識しています。この神の決定に従わないことは、イスラエルの神ヤハウエに対する不従順であり、無益であるとラハブは信仰の問題として考えた、そういう叙述になっています。だから、ここでラハブが物語ることは、「天上と地上にいます神」による歴史、計画を認知するしるしとして宣言されています。ヘブライ人への手紙11章31節で、「信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました」と、ラハブの行為が信仰の行為として評価されています。

そして、この点が重要であることが、22-24節において示されています。エリコで起こったことは、「主は、あの土地をことごとく、我々の手に渡されました。土地の住民は皆、我々のことでおじけついている」(24節)と語られています。それは、9節で、「このあたりの住民は皆、おじけついている」言葉を改めて確証するものとしても語られています。

この書の著者が保有していた伝承素材を用いて語ろうとしている真の意図は、6章25節で、「遊女ラハブとその一族、彼女に連なる者はすべて、ヨシュアが生かしておいたので、イスラエルの中に住んで今日に至っている。エリコを探る斥候としてヨシュアが派遣した使者を、彼女がかくまったからである」という特定の事柄を説明する原因譚の一つとして示すことにありました。

12-21節の物語は、二人の斥候とラハブとの間に結ばれた誓約的な意味を持っていたことを明らかにしています。ラハブは自分が示した誠意に対して、二人の斥候に、「主の前でわたしに誓ってください。そして確かな証拠をください」(12節)といって、誓約を求めています。14節には、斥候の二人が、「我々のことを誰にも漏らさないなら」という条件を付けて、「誠意と真実」を持ってこれに応える「命をかけた」誓約を確認し、ラハブは二人を窓から綱でつり降ろす場面が描かれています。ラハブの家は城壁の壁面にあり、二人は、ラハブによって用意された綱(ヘベル)で、窓からつり降ろす(ヤ-ラド)行為は両者の関係を特徴的に示しています。ラハブが求める「しるし」は「赤い紐」と関係するものとして物語られています。この「赤い紐」は、将来この家と住人を救う目印となります(6:22以下参照)。

冒頭に述べた「斥候物語はそれ自体としてどんな意味を持っているのかという疑問」について、ここで答えるならば、その意図は、11節後半に記されている「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」という真正な信仰告白を記述することにあったということができるでしょう。ですから、12-21節は、ただそのための説明としてのみ重要な位置を占めているに過ぎません。大切なことは創造主である唯一の神が同時に歴史の主として導きを与えておられるということです。そのことをこの物語から学び、理解することが読者に求められています。

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