ヨナ書講解

1.ヨナ書第1章『海の嵐』

「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ」と報じて物語は始まりますが、この預言者については、父の名前のほかは何もわかりません。列王記下14章25節との関連は「序」において述べた通り、無視されてよいでしょう。この記述において見逃してならない大切な点は、「主の言葉が…に臨んだ」という啓示の事実を客観的に述べていることにあります。啓示による神から出る言葉に力点が置かれています。著者は人間の経験ではなく、神の言葉と行為を前面に出して、事柄を信仰において受け入れることの大切さを知ることを期待して、筆を進めようとしています。

「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。…」(2節)と、預言者へ向けて語られた神の言葉は命令であります。神は働きたもうお方であり、その命令を通して出来事の中に立ち入ろうとされる神であることを、この命令は明らかにしているのであります。

ヨナは大いなる都ニネベに行き、「彼らの悪はわたし(神)の前に届いている」と戒告せよとの命令を受けています。ヨナに対する神の命令は、アモスが神に呼び出されたときに与えられた命令を思い出させます(アモス7:15)。ヨナはこの命令によってニネベの罪に対して預言者として立ち向かうべく召命を受けたのであります。またこの命令は、神が世界諸強国の主であり、世界の諸国は、審き主であるヤーウェに責任を負うことを明らかにしているのであります。神の力と御心は、土地の境や民族の違いに束縛されず、あまねく行き渡るものであることが示されているのであります。

しかし、ヨナは逃亡することによって、神の命令から身を引くことができると信じていました。その理由は、エレミヤのように失敗を恐れたからではありません。ヨナは、自分の語る言葉が神の命令によるものであるがゆえに、ニネベに悔い改めと救いをもたらすかもしれないという結果に対する恐れを抱いたのであります。ヨナの心は、救いはユダヤ人にのみ限られるべきだという強い反抗心を抱き、ヨナは神の計画を無効にしようとニネベと反対の西の最果てタルシシュ(フエニキア人によって築かれたスペインの東海岸の植民地)に逃亡しようとしました。

この点に関して、ヨナは根本的な考え違いをしていました。後にヨナが告白するように、主は「海と陸とを創造された天の神、主」(9節)であります。その世界のすべてを支配し、主の目は全地にあまねく行き渡っています(歴下16:9)。主は誰一人見過ごしにされません。主は、ご自分の前から逃れてもう安心だと思っている預言者をも捕らえる方であります。創造者であり、陸と海の主であります。ヨナが己の罪を告白すべき方である主(ヤハウェ)が、嵐を送り、船を難破の危機に陥れるのであります。

船の乗組員は異なった国から寄せ集められた人々でありました。彼らは恐怖に陥り、それぞれ恐れのあまり、ばらばらに自分たちの神に呼びかけました。ヨナだけが、この嵐に動じないで船底に引っ込んで安全だと思って寝込んでいました。これはヨナの信仰に基づく行為であります。この嵐の原因が彼の主の命令に背いたことにあるという点を見落としていましたが、世界を造られた主を信じる者を、主が守られるというヨナの信仰それ自体は誤りではありません。しかし、この場合ヨナの信仰が問題であったのではありません。神の命令こそが聞かれねばならなかったのであります。ヨナはこの点を見過ごしていたのであります。

船長はヨナを見つけ、嵐の中で平気で寝ていることに驚いて、ヨナに彼の神に執り成してくれと頼んだのは、あらゆる操舵の試みも利かず、船に乗っている皆の神の頼みも聞かれずにいるのを知って、それが救われる最後の可能性だろうと思ってのことでありました。

その時、全ての国の神名で祈られ、聞かれなかった船員たちは、くじによってこの災難をもたらした容疑者を見つけ出そうとしていました。人々は、海の嵐が何かの人間的罪過に対する神の罰であると信じていました。それを特定する方法としてくじは当時広く行き渡っていた方法でありました。

くじはヨナに当たりました。そして、人々はヨナに深い興味を抱き、彼の身分と出身を尋ね、ヨナは自分の国と信じている神ヤハウェの名を隠さずに述べました。ヨナは、自分が神から逃亡しようとしていたにもかかわらず、主なる神ヤハウェを人々の前で告白せねばならないことになりました。また計らずも、この告白によって、真の神への真正な畏敬と神認識を、異邦人の船乗りたちに呼び起こすことになりました。

こうして今やはじめて、出来事の意味連関が乗組員たちに明らかにされることになりました。乗組員たちは、この海の嵐が起こったのは、ヨナが神の前から逃亡したことに対する神の罰であることを深い恐れを持って認めるようになりました。そして、彼らはヨナが頼るべき助け人どころか、自分たちの災難の張本人であることに気づかされました。ヨナもまた、今はもう逃れる道のないことを悟らされました。

主なる神ヤハウェは、異邦人の乗組員たちによって、この逃亡の預言者を捕らえたのであります。そのようにしてヨナは自分の罪を認めさせられ、自らを犠牲として捧げることを申し出ることになりました。ヨナのこの行為は、もし神に背いて罪を犯した自分が海に投ぜられ、死によって己が罪を悔い改めたなら、神の怒りは静まるであろうとの信仰に基づいてのものでありました。このヨナの信仰は、新約聖書が報じる罪なき神の御子の贖罪とは異なります。しかし、罪を悔い、己を自己犠牲する者の死を無駄にしないという信仰は、主イエスの十字架の信仰へと繋がるものであることを示しています。

ヨナのこの申し出に、乗組員たちは躊躇し、彼らは人間を犠牲にすることを恐れ、最後の試みを可能な限り続けようとしましたが、ついに万策尽きて、恐る恐るヨナの申し出に従って、彼を海に投じることにしました。しかし、彼らはヤーウェに対して、「ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。」と祈りました。彼らの祈りは、自分たちは神の前にやましいことがないのにという憂慮と同時に、神の御心への恭順を表すものでありしました。

ヨナ書の記者は、ヨナよりも異邦人である船乗りたちのほうが誠実で敬虔な態度を示したことを明らかにしています。この出来事の描写は、異邦人は単なる堕落した大衆にすぎないという狭隘なユダヤ主義的見解が、いかに誤ったものであるかを示そうとしているのであります。

ヨナが海に投げ込まれ、やがてすぐに嵐がやんだ事実が簡明に報告されています。神は、逃亡する背信の預言者をしっかりと捕らえ、誰も神から離れることはできず、誰であれ神の命令に逆らえば罰せられることを明らかにしています。この物語はその事実を、強烈な印象を持って語っているのであります。

この章の物語は、最後に異邦人の船乗りの悔い改め、神への畏れ、敬虔な礼拝を報じて結ばれています。全能の神ヤーウェの真実は、人の思いを超え、人の思いを逆転させることができるのであります。誰よりも神の民を自負するユダヤ人の預言者ヨナが神の命令に反し裁かれ、反対に神の救いから最も遠いと思われている異邦人が神の憐れみにより、助けられ、神を真実な態度で畏れ敬う信仰へと導かれています。主の救いの手はその手が短いから異邦人を救えないのではありません。かつてイスラエルの救いにおいて伸べられた主の御腕の力は、地の境を越え、民族の壁を越えることができ、神が欲するなら誰をも救うことができるのであります。ヤーウェ信仰をユダヤ人社会にのみとどめようとするユダヤ主義を、ヤーウェ自身が取り除けようとされているのであります。ヨナ書は、この事実を突き付け、その狭隘な福音理解を、先に選ばれた者の心から取り除こうとなさるヤハウェを指し示しているのであります。

ヨナ書のメッセージは、この点でイエス・キリストの福音に繋がっているのであります。

旧約聖書講解