エレミヤ書講解

59.エレミヤ42章1節-43章7節『無視された警告』

42章は、カレアの子ヨハナンに率いられた民がエレミヤを訪れ、その身の振り方について主の託宣を求めたのに対し、エレミヤがユダの地に留まれ、エジプトへ行ってはならないと告げた主の警告を記しています。43章1-7節は、その民たちがエレミヤの言葉を偽りだ、エレミヤを主に遣わされた預言者ではないといって退け、エジプトへ逃亡したことが報告されています。これらの出来事が伝えようとしている使信が何かを問うことは、この箇所を理解する上で重要な意味を持ちます。しかし、そのことはしばらく伏せておいて、まず物語の経過を見ていくことにします。

カレアの子ヨハナンは、ゲダルヤを暗殺し巡礼者の一行を殺害した後、王女やミツパにいた民の残留民たちを捕虜としてアンモン人の下に逃れようとしていたイシュマエルの後を追い、捕らえられていた人々を救い出すことに成功しましたが、イシュマエルを捕らえることに失敗しアンモン人の下に逃げられてしまいました。ゲダルヤを暗殺したイシュマエルを捕らえてバビロンに引き渡せば、バビロンからの報復を免れることができるとヨハナンは考えていました。しかし、そうすることに失敗してしまいましたので、バビロンは報復にやってくるのではないかと恐れ、エジプトへの逃亡を考えていたことが41章16節以下に述べられています。

それゆえ、ヨハナンとエザンヤをはじめとする、すべての軍の長と民の全員が、身分の上下を問わず、エレミヤを訪ねて来て、「あなたの神である主に求めて、我々に歩むべき道、なすべきことを示していただきたいのです」(42章3節)と述べた時、彼らの決心は既にエジプトにのがれるということに固まっていたと考えられます。それなのにエレミヤに「歩むべき道、なすべきこと」を示してほしいと求めたのは、エレミヤに対する彼らの尊敬の思いと、主の御旨が預言者エレミヤを通して示されるという信仰が彼らにも残っていたことを示しています。しかし、その場合の信仰は、ゼデキヤ王がエレミヤに示した信仰とよく似ています。どこまでも自分にとって都合のいい言葉だけを聞きたいと思う信仰です。いずれにしても、これまでのミツパにおける出来事において、エレミヤの存在が忘れられているように何も記されていませんが、ここにおいてはじめてミツパにおけるエレミヤの存在がクローズアップされています。そのことは、真の神の言葉を取り次ぐ預言者に聞かねばならない重要な局面を迎えていたことを示しています。

そして、エレミヤはこの申し出を受け入れ、主に祈るときを持ち、主の答えを聞いたなら、そのすべての言葉を伝えるとの約束をしています。そのエレミヤの答えに、人々は、「主が我々に対して真実の証人となられますように。わたしたちは、必ずあなたの神である主が、あなたを我々に遣わして告げられる言葉のとおり、すべて実行することを誓います。良くても悪くても、我々はあなたを遣わして語られる我々の神である主の御声に聞き従います。我々の神である主の御声に聞き従うことこそ最善なのですから」(42章5,6節)と答えています。エレミヤに対する恭しい彼らのこの態度が真実であるかどうかやがて明らかになります。

エレミヤは、主に祈るために十分な時間をかけています。これまでのエレミヤのメッセージからすれば、彼の確信はすぐに示すことができたと思います。しかし、それが主の御旨と完全に一致するかどうか分りません。それゆえ、預言者は静かに祈り、主の答えが与えられるまで待ちました。

「十日たって」(7節)は、ヘブル語を、文字通りに訳せば、「十日間の終わりに」となります。十分な祈りと黙想の時を過ごし、主の御旨が告げられるまでエレミヤは待ちました。その時が来るまで、エレミヤには「十日間」という時が必要でした。そして、それは預言者の言葉を聞く民にとっても必要な時間であったはずです。その「十日間の終わりに」、エレミヤに対し主の言葉が臨みました。どんなに心は急いでも、主の御旨が示されるまで待つ、そこに御言葉に聞く真の信仰の姿があります。エレミヤはこうして祈りと黙想の十日間の後、示された主の言葉を10,11節のよう告げました。

これは、主がユダの人々の罪を裁くためにバビロン王の手に渡したその行為を悔いているということではありません。神が審判の後も怒り続けるということはなく、民の残留者たちに改めて恩寵を向けようとすることを表わしています。そして、ここには、エレミヤが預言者として召命を受けた時に与えられた言葉が見られます。

見よ、今日、あなたに
諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。
抜き、壊し、滅ぼし、破壊し
あるいは建て、植えるために。(1章10節)

この言葉を胸に刻んで、エレミヤはいつも主から召された預言者として歩み続けてきました。「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植える」預言者としてのエレミヤの働きは、彼に託された御言葉がその現実を創り出すものであることを示しています。それゆえ、この場合、「今、あなたたちはバビロンの王を恐れているが、彼を恐れてはならない。彼を恐れるな、と主は言われる。わたしがあなたたちと共にいて、必ず救い、彼の手から助け出すからである」(11節)という言葉に聞き従うかどうかが、預言者の言葉が「抜き、壊し、滅ぼし、破壊する」という形で現われるか、「建て、植える」という形で働くかを分かつ決め手となります。

エレミヤはこれらの言葉において、十分に、エジプトに行くなとの意味を伝えています。しかし、彼らがエジプトに行くことになるという前提の下に、エジプトに行った場合に受ける災い、致命的な誤りについて言葉を補い、彼らに下される決定的な災いについて42章20,21節のように告げています。

エレミヤがこれらの言葉を語り終えたとき、ヨハナンをはじめ「高慢な人びと」は、エレミヤに向かって、「あなたの言っていることは偽りだ。我々の神である主はあなたを遣わしていない。主は、『エジプトへ行って寄留してはならない』と言ってはおられない」といって、エレミヤの言葉を全否定する態度を示しています。エレミヤは、彼らが聞きたいと思う言葉を告げず、どこまでも主の御旨を告げています。自分たちの望んでいることを語ってほしいという期待を裏切られた彼らは、このように否定することによって、預言者エレミヤの権威を否定しています。しかも、弟子であるバルクに唆されて、エレミヤがそのように語ったように述べています。これらの言葉は、「十日間」という時間を長く感じた彼らが、結論を急ぎ、エレミヤから主の言葉を聞く前に、バルクに予め尋ねて、バルクから同じような結論を聞いていた可能性を示しています。

いずれにせよ、「カレアの子ヨハナンと軍の長たちすべて、および民の全員は、ユダの地にとどまれ、という主の声に聞き従わなかった」(43章4節)事実は、彼らの御言葉への背反の罪として、示されています。彼らは、エレミヤに「良くても悪くても、我々はあなたを遣わして語られる我々の神である主の御声に聞き従います。我々の神である主の御声に聞き従うことこそ最善なのですから」(42章6節)と述べていたのに、このような姿勢を示しえたのは、それが言葉だけの信仰表明でしかなく、彼らの本心は既にエジプト行きで決まっていたことを示しています。バビロンが報復のためにすぐにでもやってくるのではないか、という恐れが、神のときを待ち、神の御言葉が示されるまで祈り待とうという信仰を後退させ、その御言葉が示される前に自ら結論を下し行動する罪を犯した彼らのこの問題は、私たちにも同じ過ちを犯してはいないかという、問いとして聞く必要があります。

この出来事を報告する編集者は、イスラエルの将来を希望ある担い手としての「残りの者」に彼らがなり得ない証左として、これを伝えようとしています。こうして彼らは、バビロン王の報復を恐れて、エジプトへの逃亡を決行しました。そこには、エレミヤとバルクもいた(43章6節)と告げられていますが、エレミヤが自ら決心してついて行ったのか、無理やり一緒に連れ去られたのか、この短い記述だけでは分りませんが、いずれにせよ、そこに、「民と共に預言者として生きる」エレミヤの姿が描かれています。エレミヤが人質に取られたことは、御言葉がそのような扱いを受けたことを意味します。しかし、彼らには主の御旨は既に告げられています。その御言葉は、エジプトにのがれても、「抜き、壊し、滅ぼし、破壊する」という形で働きます。

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