エレミヤ書講解

55.エレミヤ書37章11-21節『エレミヤの逮捕、監禁』

ここに報告されているエレミヤの逮捕、監禁に関する出来事は、事柄としては先行する10節までとの直接的な結びつきはありません。ただ時間的には、バビロン軍の撤退によってもたらされた包囲の中断中の出来事である点で、10節までの事柄とそれほど時間的に隔たっていません。バビロン軍が包囲を解いていたわずかな自由に外出できる機会を得て、エレミヤはエルサレムを出て近くにある故郷に行き、親族の相続問題の解決を図ろうとしました。親族の相続問題とは、32章6節以下に記されている「アナトトの畑」の購入に関する事柄であると考えられます。それゆえ、32章は、この時に逮捕された後、獄舎にいるエレミヤのところに、親戚の者が尋ねてきた時の出来事を記していると考えられます。それは、再び、自由の身として外出する事のできないエレミヤと国のおかれている厳しい状況を示しています。バビロン軍の包囲が再開された後か、まさに包囲が再開される直前かのいずれかの時です。

エレミヤは、バビロン軍が進撃してくるエジプトのファラオの軍隊を迎え撃つために一時的にエルサレムの包囲を解いた、わずかな時の隙間に親族の相続問題を解決するべく町を出ようとしたのでありますが、エレミヤがベニヤミン門に差し掛かったとき、エレミヤの行動を監視していた守備隊の長イルイヤが見つけ、「カルデア(バビロン)軍に投降しようとしている」という嫌疑をかけて捕らえました。その言辞は、エレミヤがゼデキヤ王にバビロンへの投降を勧めていることをイルイヤが知っていたことを示しています。

しかし、エレミヤはきっぱりと敵への投降の嫌疑を否定しています(14節)。エレミヤがゼデキヤに投降を勧めたのは、国が最悪の事態にならないようにするためです。だから、自分の任務を途中で放り出したまま、自分の命だけを救おうと逃亡を試みるなどということは、エレミヤには毫も考えられないことです。

それを、エレミヤは後の行いによって証ししています。40章にはバビロンのネブカドネツァルの親衛隊長ネブザルアダンによって捕虜にされたときのことが記されていますが、その後、鎖を解かれて、エレミヤが望めばバビロンに来てよいとの勧めをネブザルアダンは王命によって行いました。しかし、エレミヤはそれをきっぱりと断り、ミツパにいるゲダルヤのもとに身を寄せ、「国に残った人々と共にとどまる」という選択をしました。その勧めはエレミヤのバビロンにおける地位と平安を約束するものでありましたが、エレミヤは自らの預言者としての召しは、ユダの民のもとを離れてはありえないという考えから、この進言を断っています。そして、ゲダルヤが暗殺された後、エジプトへの逃亡を試みようとすることに対しても、エレミヤは反対しています(42章)。その反対の理由も同じです。

しかし、イルイヤは、「それは違う。わたしはカルデア軍に投降したりはしない」という明確なエレミヤの否定の言葉を聞いても、「聞き入れず、エレミヤを捕らえ、役人たちのところへ連れて行った」(14節)といわれています。イルイヤは自分のした措置が認められることを計算していました。イルイヤが役人たちのところへエレミヤを連れて行き、イルイヤが一方的に述べた逮捕の理由を信じた役人たちは、「激怒してエレミヤを打ちたたき、書記官ヨナタンの家に監禁」(15節)する措置を取りました。エレミヤに好意を抱かない役人たちの感情を計算に入れたイルイヤの思惑はみごと成功しました。こうしてエレミヤは書記官ヨナタンの家にある「丸天井のある地下牢に入れられ、長期間そこに留めて置かれ」(16節)ることになりました。

エレミヤがヨナタンの家の地下牢に拘禁されている間に、中断していたバビロン軍のエルサレム包囲が再開したと考えられます。そして、その事態に不安を感じたゼデキヤ王は、エレミヤを自分のところに連れてこさせ、その状況の変化を前にして彼に神の言葉を尋ねようとしたのでしょう。ゼデキヤ王は、好戦的な高官たちの動きに不安を感じ、その動きを恐れていました。バビロンによる包囲が再び訪れた絶望的な状況から脱出する最後の逃れの道として神の奇跡を期待して、ゼデキヤはエレミヤから神の言葉を聴こうとしました。しかし、エレミヤと一緒にいるところを、戦争を推し進めようとしている高官たちのグループに見られないように、エレミヤを宮廷に連れてきていたのです。エレミヤを彼らから守る目的で、宮廷に連れてきたのでもありません。ゼデキヤはそのように心を乱しながら、エレミヤにひそかに「主から何か言葉があったか」(17節)と尋ねました。

エレミヤは、王の問いに対して、以前と異ならない厳しい主の審判を告げたと思われます。王はエレミヤに敬意を抱いていました。しかし、ゼデキヤ王は、その敬意にふさわしい十分な措置を取らないまま、エレミヤを呼び寄せました。ゼデキヤには好戦派に対峙する十分な覚悟がありません。そのことをエレミヤは見透かして、ゼデキヤ王に向かって、「わたしを牢獄に監禁しておられますが、一体わたしは、どのような罪をあなたとあなたの臣下、あるいはこの民に対して犯したのですか。『バビロンの王は、あなたたちも、この国をも攻撃することはない』と預言していたあの預言者たちは、一体どこへ行ってしまったのですか」(18,19節)と正義と真実にたって事柄を判断するよう王に促しています。

バビロンの包囲が解かれた時、偽預言者たちは、「バビロンの王は、あなたたちも、この国をも攻撃することはない」と預言していました。しかし、バビロンによる包囲再開の事実は、エレミヤの預言の真実と「バビロンの王は、あなたたちも、この国をも攻撃することはない」と預言していた預言者たちの不真実とを明らかにすることになりました。だからエレミヤは、「あの預言者たちは、一体どこへ行ってしまったのですか」と王に問い返しているのであります。エレミヤはかつて平和を預言するハナンヤに向かって、「平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる」(エレミヤ書28章9節)と語りました。エレミヤは、ゼデキヤ王にその認識をここで改めて問うているのであります。

イルイヤによる逮捕と書記官ヨナタンの家での監禁は、親バビロン政権を恐る恐る保とうとしたゼデキヤ王に対する、いわば政治的テロとしての意味を持っていました。それ故に、バビロンへの投降を勧めるエレミヤは理不尽な仕打ちを受けていました。「長期間そこに留めて置かれた」のは、預言者エレミヤの口を封じる弾圧のためです。

それゆえ、「 王よ、今どうか、聞いてください。どうか、わたしの願いを受け入れ、書記官ヨナタンの家に送り返さないでください。わたしがそこで殺されないように」(20節)というエレミヤの嘆願は、自分の命を惜しむ命乞いとしてのことばと解すべきではありません。言葉の表現だけを見ればそのような印象も受けますが、エレミヤは、ゼデキヤに王として取るべき態度を要請しているのです。神の意思をどのように聞くか、それは、彼が預言者エレミヤをどのように処遇するかという問題と実は一体の問題として横たわっていました。預言者が神の意思を今後も明らかにし続けることができるように、また王がその神の意思を聞くことができるように、エレミヤを自由の身にし、彼の口を封じ、真実を語る預言者の命を狙う敵対者たちの手から守る責任をゼデキヤは問われているのです。

神の意思は、この場合、王がこの預言者の保護者となることによって、王は神の導きに従うものとなるという信仰を表明することを求めています。神の歴史支配と導きは、そのように現されます。しかし、ゼデキヤはそのいずれでもない道を選択しました。

「ゼデキヤ王は、エレミヤを監視の庭に拘留しておくよう命じ、パン屋街から毎日パンを一つ届けさせた。これは都にパンがなくなるまで続いた。エレミヤは監視の庭に留めて置かれた。」(21節)これが好戦派のことを気にしながら取ったゼデキヤの措置です。何という中途半端さ!これが神の言葉に心底から聞こうとしない人間の本質です。神の言葉をこのように閉じ込め、残し、パン屋街から買ってくる「パン一つ」毎日届けるだけで、神の言葉の命脈を保とうとするこの中途半端さ!しかも都のパンがなくなるまでしか続けられない、都と共に滅びる神の言葉の命脈の中途半端さ!預言者をそのように留め置こうとするこの王の信仰の中途半端さ!それは果たしてゼデキヤだけの中途半端さなのでしょうか。

しかし、神の言葉の命脈は、この中途半端な人間の行為によって絶たれることはありません。神の言葉はこのような弱さの中に力強く働いています。

エレミヤ書20章7-9節には、かつてエレミヤが告白した言葉が記されています。そのエレミヤがここで敵対するものにひるむはずがありません。そしてエレミヤを預言者とした主が彼を挫折させるはずがありません。この神の真実を語る預言者をどう処遇するか、それは、聞く者に問われている問題です。ゼデキヤのように、自己の監視の庭である心に閉じ込めて、パン一つで細々と聞くような中途半端な信仰に留まるのか、それは、エレミヤ書を読む者に問われている問題です。

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