エレミヤ書講解

37.エレミヤ書22章24-30節 『ヨヤキンに関する二つの預言』

ここには、ヨヤキムの息子であり後継者であるヨヤキンについての二つの預言の言葉が記されています。ヨヤキンは前598/597年に18才で父ヨヤキムの後を継ぎ、王位に就きましたが、その王位はわずか3か月足らずで終わってしまいます。それは、ヨヤキンがバビロンに捕囚の身となって連れ去られることによって終わりました。24-27節は、前597年の第1回捕囚による破局の前に語られた預言の言葉です。28-30節は破局後のものです。

24節、「もはやわたしの右手の指輪ではない。」古代近東世界では指輪には印章がついていて、契約の認証をするのに印として用いられました。24節はこの印章つきの指輪が比喩として用いられています。ヤハウェの手にある印章つきの指輪は、ヤハウェの選びのしるし(ハガイ2:23)としての意味がありました。従って王には、印章指輪のように、神の王なる支配権を「認証」しそれを代行する権能が与えられていました。人々は、ヤハウェがこの若き王に恵みを施し、迫り来る破局を防ぎ守ってくれるであろうと期待していました。しかし、まさにこの期待が、ここに明らかにされているとおり、ヤハウェの厳かな誓いによって粉砕されることになります。選びではなく、捨てることをヤハウェはこの王に対して決定されたからです。ヤハウェはだれも予期しえなかったことをなされると宣言されます。即ち、ヤハウェ自ら印章指輪を指から外し、投げ捨てるであろう、と言われます。

25節以下は、この比喩が具体的な威嚇の形で述べられています。王だけでなく、王の母もバビロンに捕囚として連れ去られ、再び故郷の地を見ることなく異郷の地で死ぬことになると語られます。この預言は事実成就しました。その詳細については、列王記下24章10-16節に報告されています。

ネブカドレツァル時代の楔形文書には、ヨヤキンが家族および従者らと共にバビロンの王宮内に幽囚されていたが、独立した生計を営む自由を与えられていたことが記されています。ネブカドレツァルの後継者アメル・マルドゥクの時代(561年)になって、ヨヤキンは牢から解放され、宮廷に迎え入れられ、日々の糧を王から配給されるという丁重な扱いを受けたことが報告されています(列王記下25:27-30)。けれども、ヨヤキンの王位復権の要求や故郷への帰還は拒否されたままでした。

28-29節は、ヨヤキンの捕囚後の過酷な運命について語られています。若き王の過酷な運命は、国民の間に様々な疑問を呼び覚ましました。その疑問は、ゼデキヤの時代になってもなお続き、民の心情を激しく揺さぶり続けました。エレミヤは、その疑問をここで取り上げています。民の疑問というのは、ヨヤキンこそ正統な、つまりヤハウェから全権を委ねられて即位した王ではなかったのか、何故その彼と彼の子孫とが壊れて価値のなくなった器のように投げ捨てられ、異郷の地に閉じ込められねばならなかったのか、という問いでありました。この「なぜ」という疑問の中から、神に対するある種の非難の声と、もはや歴史的現実に対処しきれなくなってしまった宗教思想の崩壊の響きが聞こえてきます。

これに対して預言者エレミヤが語らねばならなかったことは、この疑問に答えることではなかったのです。またエレミヤの務めは、この疑問を発する人を慰めることでもありませんでした。エレミヤはこのような歴史の謎を解くどころか、あらゆる間違った希望を打ち砕いて、その謎を尖鋭化し、難しくする神のことばを提示することによって、逆に、この疑問を退けます。

エレミヤは「大地よ、大地よ、大地よ、主の言葉を聞け」(29節)と、三度繰り返して呼び掛けることによって、この地に対し、今や神の民が突入した、神の救いの歴史における決定的転換点を暗示する神のことばに注意を喚起させます。このことばが告げているのは、ダビデ王朝の時代は終わったということにほかなりません。
主が捕らわれの王ヨヤキンを「子供がうまれず 生涯、栄えることのない男として記録せよ」(30節)と命じるのは、彼には子孫がひとりもないようにされるであろう、という意味ではありません。言われている意味は、ヨヤキンの子孫はもはや、ダビデ王朝の王名表に載ることはないであろう、という意味です。そしてこのエレミヤの預言は成就しました。ヨヤキンは、ユダの王となったダビデの系図の最後となりました。それは、神自身がダビデ王朝の王の系図を閉じたことを意味します。かくて、彼らは救済史におけるその役割を果たし終えたのです。そして、神の民を導く神の歴史は、このときから別の道を取ることになります。

しかし、エゼキエルはエレミヤと違う別の見方をしました。エゼキエルはメシアの期待をヨヤキンと結びつけて、エゼキエル書17章22-24節で語っています。

また、ハガイ2:23には、エレミヤ22:24と関連させてヨヤキンの孫ゼルバベルを、ヤハウェの選んだ(ゼカリヤ6:9~14)ダビデ王国を再興すべき「印章指輪」として持ち上げようとするエゼキエルと同じ方向からのハガイの努力が記されていますが、結局、いずれも挫折しました。

エレミヤのこの預言は、捕囚の地にあって、ゼデキヤよりは捕囚の王ヨヤキンに希望を託し、エルサレムでのダビデ王家の速やかな再興を願う人々に対し、幻想を抱くべきでないことを示すものでありました。このようなはかない希望を持つ者はユダの残留民の中にもいましたが、ダビデの王位に就く者はついに旧約の時代を通じて表れることがありませんでしたが、ダビデ王国との伝統的な結びつきもつ旧約聖書のメシア思想は捨て去られることはありませんでした。しかしそれは、救済史における全く別な時に、全く別な方法で、歴史的な現実となりました。それは、イエス・キリストまで、歴史に登場することはありませんでした。幻想を抱くことなく、神のことばを歴史の中で語ることは難しいことでした。

しかし、エレミヤは、実に透徹した目で事態を見ています。自らの生命の危険を顧みることなく、王と王家の運命をこれほど率直に語った文書は、古代東方において比類がないといわれていますが、それは、決して誇大な賛辞ではありません。エレミヤは、このようにダビデ王家の断絶を宣言しますが、決してダビデ契約の永遠性に対して疑いを抱いていたわけではありません。その点に関しては、次の章において明らかにされています。

いずれにせよ、エレミヤがこのように心を込めて述べることばは、旧約の救済史の流れの中で時代を画す重要な意義を持っていました。

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