エレミヤ書講解

28.エレミヤ書18章1-12節『陶工の手中にある粘土のように』

17章12-18節に記されているエレミヤの祈りは、彼の預言者としての職務がいかに危機にさらされていたかを物語っています。預言者エレミヤを襲った危機は、彼が行った災いの預言がなかなか実現せず、遅れている事に対して、その敵対者たちから、預言の真実さを疑われ、彼らの嘲笑の的にされることによって引き起こされました。エレミヤの祈りは、預言者としての深い嘆き苦悩を表すとともに、それは、神のことばの真実さそのものに関わるものでもありました。エレミヤは自ら願ってもいない民の災いを預言したのは、それが神から知らされた御旨であり、それを神のことばとして取り継がねばならない預言者としての避けることのできない務めであったからです。それゆえ、エレミヤが語った災いが成就せず、また、その災いを民が受けるのではなく、エレミヤが受けることになるならば、それは、エレミヤの預言者職の真実性が問われる以上に、神のことばの真実性そのものが問われることになります。それは、更に、イスラエルに神はおられないということに繋がります。

このような意味で、エレミヤの祈り、嘆きにおいて示されたことは、神のことばの危機に関わる重大問題でありました。エレミヤの祈りの最後のことば(17章18節)に見られる激しい訴えは、その事を見通したエレミヤの切々たる訴えであり、苦悩の中における神の答えを期待した信仰者の最後の待ち望みの姿でもありました。

その待ち望みの中にあるエレミヤに与えられた主の応答が、陶工のところへ行けという主の命令であり、陶工が粘土を練って一つ一つの器を作る姿を見せて、主は、この民をどの様に扱おうとしておられるかを明らかにされます。

人の名を地面に書き記しそれを消し去るということが、背信の民の裁きを示すしるしであったように、エレミヤが陶工の下で見た、陶工がろくろを使って一つ一つの器を作るその姿は、神の審判の意味を明らかにするしるしでありました。

陶工は粘土で作った作品が気に入らなければ、それを自分の手で壊し、またそれを作り直します。この場合、陶工が粘土で作った作品は、神の手で創造された人間を示しています。神の言葉の真実さを巡って苦闘し、神の現実に完全に開かれた心をもっていたエレミヤにとって、この日常の体験は、意義深い神の導きを知る決定的な体験となりました。この陶工の行う人間的な日常茶飯事の過ぎ行く行為が、実は深い神の創造の御業を示し、神によって創造され、その神と特別な契約関係に立つイスラエルの民との関係を示す言葉、即ち、啓示として特別な意味を持つものとして、エレミヤに示されました。

エレミヤは実際、陶工が粘土で器を作っているところに行き、その現場を実際に見ているときに、これらの主の言葉を聞きました。陶工は手の中にある粘土を思いのままに扱います。出来上がったその作品の将来は、陶工の意思と判断にすべてがかかっています。神がイスラエルに対して持たれている関係もそのようなものであることを、神はエレミヤに示されます。神は変わることのない絶対的な主として、エルサレムとイスラエルに起こる事態を掌握され、これを保持しておられることを明らかにしておられます。

6節に示された神の言葉は、神がなそうとされていることに何人も口を挟むことはできないし、また、神の行為の究極的な動機や規準についても、何人も口を差し挟むことはできないことを明らかにしています。

そしてまた、神がご自身の審きを実現するためにいつ介入されるかという時も、神の掌中にあるということを明らかにしておられます。これらのことは、神に属する事柄であって、いかなる人間も、たとえ預言者であっても関与することのできない神の秘儀に属するものであり続けます。

それゆえ、神の災いの預言が成就しないからといって、高慢に預言者を嘲笑し彼が神の預言者でないかのように疑う民の愚かさを神は断罪されます。また、そのような民の嘲笑にあう預言者の嘆きも無用なことを宣言されます。

7-10節は、陶器師の行為のように、神はイスラエルを具体的にどのように自由に裁かれるかを明らかにされますが、これらのことばは、ご自身の支配の絶対的な自由を勝手気儘に行うということにおいて行使されるといっているのではありません。それは、何処までも神ご自身によって据えられた救いの秩序の中で示されるものです。神はこの秩序の中でご自分を人間と結び付けられるお方です。しかし、その救済の秩序は、不変の摂理に固定されたタイマー仕掛けのように自動的に働く法則として定められているのでもありません。それは、活ける人格的な神と人間の相互関係においてあらわれる秩序であることを、明らかにされています。

人間の運命、即ち、審きと救いは、神に対して責任を持つ人間の自由に委ねるという形で表されるものであることが明らかにされています。そして、これこそ、ヤハウェとイスラエルの間で結ばれた契約から見た神理解です。ここでは、その神理解がイスラエルのみならず、世界の諸民族にまで及ぶヤハウェの関わりへと広げられていると述べられています。

7~8節のことばは、エレミヤが預言者として召された時の言葉を彷彿させます。

見よ、今日、あなたに
諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。
抜き、壊し、滅ぼし、破壊し
あるいは建て、植えるために。(エレミヤ書1章10節)

エレミヤは、このような使命を与えられて預言者として召されました。しかし、ここでは、災いを預言されたこの問題に、民が悔い改めて、悪から離れるなら、ヤハウェは災いの威嚇を取り消されるということが語られています。また、ヤハウェはこの答えによって、エレミヤの嘆きの祈りに対する答えを間接的に与えています。エレミヤは、神の命令によって語った自らの預言がなかなか実現せず、災いのときが遅れていることによって、預言者としての真実さを民に疑われ、嘲笑の的にされて、預言者として立ち続けることの困難を覚えていましたが、それは、神の哀れみと忍耐によって、その裁きが引き延ばされているだけに過ぎず、実にこの引き延ばしこそ、イスラエルに対する悔い改めへの神の最後の勧告を無言で要請している神の忍耐強い態度であることを理解するよう神はエレミヤに示されます。

それゆえ、神の恵みと忍耐の方が、自分の忍耐心よりも深く豊かであることを、エレミヤは悟らねばなりませんでした。しかしここで、エレミヤが人より忍耐が足りないと非難されているのでありません。神の忍耐がどれほど深く大きく豊かなものであるか、エレミヤほど民のために涙し忍耐強く祈り続けた預言者をもってしても、及ばないほどのものであることを知らしめることによって、それを示されます。

しかし、この神の恵みに、最後まで心をとめず、神からの悔い改めの要求と審判の威嚇の厳しさにも心にとめず、悔い改めない者を、神は見過ごしにされません。だから、エレミヤの敵対者たちが考えるように、神の威嚇の言葉をどうでもよいと見なすことはできません。神は人々が最後まで不従順でいるなら、その救いの約束を取り消し得るのだと語っておられます。

神の恵みと救いの言葉は、うすっぺらな宗教的楽観主義の保証ではありません。神の恵みと救いの言葉は、神の審判が厳しく不可避なことを語る言葉と共に語られることによって、罪人を悔い改めへと招く、その本来の意味と価値を得ます。7-8節と9-10節とは有機的な一体性をもって語られています。神の恵みと審判は、神の言葉の告知において相互に深く結び合わされつつ人間に知らしめられ、人間のその応答の中で具現する神の秘儀に属する事柄です。

それ故、神はエレミヤをユダとエルサレムの住民の下へ遣わし、悔い改めへの勧告を語るよう、預言者の職務にもう一度戻されます。それは、エレミヤが悔い改めない民に災いが下ることを祈る中で自ら切り開こうとしたのとは別の道でありました。神はこのようにして、陶器師の作業場において、エレミヤの認識を広げさせただけでなく、預言者の職務がいかなるものであるかを改めて知らしめ、自己克服の道に導かれたのです。

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