エレミヤ書講解

18.エレミヤ書10章17-25節 『破局ととりなし』

ここには間近に迫る北からの脅威(22節)が語られていますが、その時期については学者の意見が分かれています。エホヤキン(ヨヤキン)の捕囚の時(前597年、バビロニアエルサレム占領、第1回捕囚)か、あるいはゼデキヤの時の包囲を暗示するという意見もありますが、22節の「北の国から大いなる地響きが聞こえる」という表現は、まだ完全に包囲されてまったく身動きできない状況にまでいたっていないが、それは間近に迫っており、不可避なものとして、ユダの町を徹底的に荒廃させるものとして語られていますので、エホヤキンが捕囚にされる少し前のときが可能性として一番高いように思われます。その時期がいつであれ、重要なことは、その事態に至っているにもかかわらず、群れを養う羊飼いとした立てられた政治的指導者も宗教的指導者も見守る者としての責任を十分に果たしていない現実があったこと、それを民の中にあって共苦する預言者エレミヤが深い嘆きを持って、その避けえない破局を語り、執り成しの祈りをして、主の審きに委ねているということ、そして、この破局は、直接、北の国によってもたらされるものであっても、主の支配の中で、主の意志として行なわれること(18節)が語られていることにあります。主の契約の道を歩まない者に下される審判であれば、そこには希望が残ります。主の御言葉に聞き、悔い改める者に、神による救いへの道が、その審判の中に示されているからです。

先ず預言者は、「包囲されて座っている女よ、地からお前の荷物を集めよ」(17節)と、エルサレムの町に向かって、極めて簡潔で力強い口調で、要求を発しています。それは、捕囚とされてこの地を去るときの用意のために衣類を纏めよという要求であります。

エルサレムは背信の罪を繰り返し、いつまでも御言葉に立ち帰って悔い改めることをしなかったため、主の怒りは頂点に達していました。そのため、エルサレムにその報いとして審判を実行される決定的な時が来たということです。この要求をすることができるのは、契約において真実を果たされる主だけです。だから、エレミヤはこの要求の正当なことを根拠づけるために、18節において主のことばを持ち出します。

主はこう言われる。
見よ、今度こそ
わたしはこの地の住民を投げ出す。
わたしは彼らを苦しめる
彼らが思い知るように。

これまでの破局的な危機も、主の都エルサレムはまだ無事に逃れえていました。しかし、「今度こそ、わたしはこの地の住民を投げ出す」と言われます。エルサレムの住民は、追い散らされ、困窮に陥り、もうそこから逃れえないということを心の底から「思い知るように」なるほど徹底した破局がもたらされると言われます。敵の手を用いて民の将来を決める方はヤハウェ自身です。それは、「わたしは」という主語によって強調され、そのもたらされる審きの不可避なことが明らかにされています。しかし、それと同時に、敵による屈辱的な仕打ちが主の意思として起こる出来事であるだけに、正しくその審きに服し、悔い改めて再び御言葉に立ち帰るなら、主は再びこの歴史に介入して、民を救いへと回復させることができます。だから、この徹底した審判のことばを聞くことは、悔い改めへの最後の招きを意味していました。

しかし、この審判のことばはここで中断し、19節から、突然、嘆きの言葉が語られています。これは、民の嘆きであると同時に、エレミヤ自身の嘆きとして歌われている嘆きの歌です。その審判を受けて、民は、はじめて、その事態が深刻極まりないことを認識するのです。民は、それまでは、自分たちに降りかかる災いを、病のように過ぎ行くものであると考えていました。特別な不治の病ではなく、一過性の病気のようにして捉え、ただその期間をひたすら忍耐すればよい期間と考えていました。そのように、破局は何とかきり抜けられるものだと安易に考えていました。しかし、彼らに下される審判は、そのような楽観を一切許さない厳しいものです。この嘆きが単に民の嘆きではなく、エレミヤ自身の嘆きであるなら、「これはわたしの病、わたしはこれに耐ええよう」と、エレミヤ自身の苦しみとして、それを引き受け、耐えようとしている預言者の深い愛を見ることができます。
20節は、エルサレムの悲惨な現実を、子を持つ母親として語っています。母親は手塩にかけて育てた子供が、突然、一人もいなくなったことに気づきます。そして、ことごとく天幕は壊され、それを張り直そうとしても、それを手伝ってくれるものが一人もいない悲惨が歌われています。この言葉にもエレミヤの嘆きが投影されています。

21節は、指導者の責任を追及する言葉が記されています。民の指導者の政治的な発想と行動におけるその愚昧さの根本的な問題は、「主を尋ね求めることをしない」ことにありました。彼らは、神こそが真の歴史の支配者であることを見過ごしていました。政治的危機に際して、強力な敵に対抗するために安易な同盟に走ったり、そのために偶像宗教を受け入れる愚かな選択をすることによって、一時的に危機を回避しようとしました。しかし、それは、危機を大きくするばかりでなく、何よりも、神こそが真の歴史の支配者であり、導き手であることを見過ごしている点で、根本的な歴史認識の間違いを犯す罪となりました。その結果、誰が苦しむかといえば、彼らに養われる羊の「群れ」としての民です。その民に待っていた現実とは、「散らされる」ことによってもたらされる、国の荒廃です。

そこから真の悔い改めと祈りへ向かうことが求められています。

声がする。見よ、知らせが来る。
北の国から大いなる地響きが聞こえる。
それはユダの町々を荒廃させ
山犬の住みかとする。(22節)

といってエレミヤは聴覚的・視覚的体験に訴えて、北から切迫する戦争によってもたらされる破局の核心を述べています。このような仕方でエレミヤに告げ知らされる内容は、ヤハウェの審判の決断です。ヤハウエがその決断をされたからには、もはや何事も変更することは不可能です。事態はまだ破局を迎えるところまで進んではいませんが、敵は既に行動を起こしており、その物音に対して、もはや耳を塞ぐことはできません。エレミヤは悲劇的結末にまだ至らない前に破局について語り、その情景を描き、心を注ぎ出して嘆いているのであります。民の罪とその刑罰の関係は基本的には律法の中に示されていますが、彼らの兄弟国北イスラエルの滅亡、首都サマリアの陥落についての記憶、そして預言者たちの警告の言葉が、その審きを避けるための悔い改めへの道を示していました。民は今こそこの預言者に聞いて、自らの真の歩むべき姿を知り、神の前に悔い改めなければならなかったのです。
エレミヤは、超然と神の審きを告げるだけの預言者ではありません。その苦しみを自らのこととして共に味わって生きる預言者でありました。23-25節には、そのように共苦する、エレミヤの姿が描かれています。

かつてモーセは「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば・・・・・・。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」(出エジプト32:31-32)と祈りました。そして、預言者アモスは「主なる神よ、どうぞ赦してください。ヤコブはどうして立つことができるでしょう。彼は小さいものです」(アモス7:1)と祈りました。エレミヤは、モーセやアモスのように、このような状況の中で、「人はその道を定めえず、歩みながら、足取りを確かめることができません」というとりなしの祈りをしています。それは、エレミヤの自分の民に対する尽きることのない愛によって呼び覚まされた祈りです。彼自身が連なる民の名で語られる祈りは、悔い改めの祈りという性格を帯びています。「人はその道を定めえず、歩みながら、足取りを確かめることができません」というエレミヤの発言は、運命に対する人間の無力という一般的な意味に解すべきでありません。この発言は、パウロがローマ書7章18節以下で述べているように、人間にはそれが善いこと、義しいことであると了解していても、それを実行する宗教的・道徳的能力がないということを意味する告白です。だからといって、エレミヤは人間の罪が簡単に免責されると考えているわけでもありません。

エレミヤの誠実で真剣な態度は、彼が決して民の安価な罪の赦しを求めようとしないところに現れています。24節において、エレミヤは「懲らしめ」を主に求めています。人が契約の道をまっすぐに歩むためには、道を外れた時には懲らしめを受けることが必要です。詩編には、「御怒り」によって懲らしめないでくださいという祈りがありますが(詩編6:1、38:1)、「正しい裁き(ミシュパート)によって」懲らしめてくださいという祈りの例はありません。詩編の詩人は罪人には神の怒りが当然であることを理解しつつ、神の前にへりくだり、従順になれる矯正の手段として、それを受け取りたいという願いから、そのように祈っています。エレミヤの祈りも本質的にはそれと同じ性質を持っていると考えられますが、「正しい裁き(ミシュパート)」は契約の法の用語です。だから、罪を犯した者に契約の法が適用されれば刑罰となります。それは神の御怒り以外の何ものでもありません。しかし、エレミヤは決して自家(じか)撞着(どうちゃく)に陥っているのではありません。エレミヤは契約の究極の目的が、試練を経て完成へ至る道を求めているのです。契約のもたらす祝福に到達するためには、契約の法に従った懲らしめと訓練を受けなければならない、とエレミヤは契約の恩恵性に対する深い洞察を持って、この祈りしています。

神の義を、理解と憐れみある神の寛容として深く把握することを通して、審判の理解もまた変化してゆきます。すなわち、審判は、人間の罪に対する神の最終的対応としての報復的懲罰というだけでなく、神が民のために備えておられる新しい道の出発点としての訓練の手段でもあるからです。

25節は内容的にもそれまでの思想を脱線しているので、エレミヤのことばではないと思われます。

この破局ととりなしの祈りにおいて聞き逃してならない重要なことは、神に栄光を帰し、神の義(正しい裁き)を信じる信仰です。そしてこの信仰は、民の苦難を貫いて、絶えず繰り返し、問題となり、試練にさらされますが、救いへと導く唯一の確かな道であることが明らかにされて行きます。神の裁きは、悔い改める者には、救いとなることが示されているからです。

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