エレミヤ書講解

14.エレミヤ書8章4-13節『立ち帰ることのない背信』

この預言は、内容からエホヤキム時代(前608-598,605カルケミシュの戦いでエジプト王ネコはネブカデネザルに敗れ、エホヤキムはネブカデネザルに朝貢。パレスチナとシリアは、バビロニアの支配下に置かれ、前601エホヤキム、ネブカデネザルに反乱、前598死没))エホヤキムのものと思われます。預言者は民の立ち帰ることのない背きの罪の指摘を、日常生活の月並みな事実を選んでおこなっています。それは、日常のより小さな事柄から大なる事柄へという論法によって論理的に異議を挟む余地のないように、重要な認識に到らせるための方法が取られています。

倒れて、起き上がらない者があろうか。
離れて、立ち帰らない者があろうか。

4節後半のこの言葉は、人は倒れたらすぐまた起き上がるものであるということ、誰でも道に迷い、目的地から遠く引き離れていけば、それに気づいて、元の道に必ず立ち帰るものであるということを前提にした問いかけとなっています。

この日常生活における例を用いて、民の神との関係がそうなっていないことを、エレミヤは明らかにしています。神はイスラエルの民がどのようにすれば罪となるか「定め」を明白にしておられました。だから、民は自らの罪について、即ち、自分たちがいかに離反した生き方をしているか充分知っていながら、なおもかたくなに神に背く状態に留まっていました。それは、預言者エレミヤにとって何とも理解しがたい頑迷な反抗に映りました。だから、「どうして」という預言者の問いは、かたくなな民の背きと格闘して苦悩している預言者の心の思いを垣間見せてくれます。エレミヤは歩むべき本来の道を、民に見出してほしいと望んでいます。

そのような期待をもって、エレミヤは民の悔い改めの声が聞けるかどうか、耳を澄まし、耳を傾けて聞いていました。しかし、エレミヤの耳に入るのは、そのような声ではありませんでした。自分の罪を正直に認めて語り、自分の犯した罪と悪に対する心からの悔い改めも、深い反省を示す言葉も民にはありませんでした。あったのは不実としか呼びようのない言葉でありました。

彼らは悔い改めへの言葉を発する代わりに、戦場に突進する軍馬のように、「それぞれ自分の道」を去っていきました。抑制の利かないこの民の罪を、軍馬に例えられているのは、一旦ある方向に走り出した軍馬がとまらないように、一旦、斜面を転がり出した人間の罪の力は、大きななだれとなって、神から離れた奈落へとますます深く堕落させるものであることを示すためです。

エレミヤは、この罪の法則を神の法則と対置させています。神のかたちを持たない、理性の判断を持たない、渡り鳥でさえ、その本能にしたがって、神の神秘に満ちた自然の秩序を認識し、自分たちの時を知り、いつも正確に自分たちの故郷に立ち帰ります。ところが、神のことばを示され、その定めを心に刻まれているはずのイスラエルがこれを知らないのです。ここに、エレミヤには理解しがたい謎があります。イエスの宣教も、まさにこの謎と対決してなされました。それは、本来神に最も近くあるべき者たちが最も遠くはなれているという、罪の不自然さです。このような神からの離反は、本来、人間が神に向かうべく性質を持つものとして造られているだけに、まことに信じがたいことです。

この背信の罪は、単に神からの離反ということに留まらず、神の定めた本来の律法を捩じ曲げて偽りの律法を捏造し、神学的・信仰的な言い訳を正当化していくことによって、さらに悪い道へと歩んでいきます。それによって、悔い改めへのいかなる訓戒も退けるものとなっていきます。

8節以下においてエレミヤは、それを、律法書記の「偽る筆」の問題として明らかにしています。人間は自分が知恵ある者であると思い込みますと、預言者が示そうとしている教え、神の言葉を必要ないものと考えてしまうようになります。しかもその場合、自分の信仰の正当性を証明するためにのみ、「律法」の字面を盾に取ることになります。

神の言葉、律法そのものが人を審き、人を正す基準となるのでなく、律法は単に自分の考えの正しさを証明する基準とされるのです。律法主義の持つ誤りの根本はここにあります。

ここでエレミヤは、書記によって記された「律法」と「主の言葉」とを対峙させています。つまりエレミヤは、真のヤハウェ祭儀を「誤らせ」「偽り」となしているのは、律法を記す者たちによって文書化された、元来の契約祭儀とは無縁の「偽る筆をもって書き」しるされた「律法」と見ています。ですから、ここで重要なことは、7章22節で、「わたしはお前たちの先祖をエジプトの地から導き出したとき、わたしは焼き尽くす献げ物やいけにえについて、語ったことも命じたこともない」といわれている本来の契約の基本を確認することです。

「書記が偽る筆をもって書き、それを偽りとした」問題とは、出エジプトのときに与えられた契約の基本とは対立関係に立つ供儀規定全体のことであると思われます。契約伝承は、本質的に、「神の言葉」、即ち口承による告知の形を取る宣教の言葉でありました。それは、神の民による契約の告白の義務を伴う十戒および救済史が祭儀的に告知される中でなされる、神の本質と意思の宣布でありました。

明らかにエレミヤは、書き記された供儀律法の総体をヤハウェ宗教の基本的性格を偽らせるものと見なしていました。つまり、そうした供儀律法がヤハウェの意思とは無関係であるにも係わらず、ヤハウェの命令として提示されることによって、神の御心を曇らせてしまうものとなります。特に問題なのは、こうした供儀律法が異教宗教の習慣を取り入れる形でイスラエルの中に入ってきたことです。

エレミヤはこのような律法主義の中に人を呪縛させ、結局のところ、それに関わる人を失望させる人間の偽りの知恵に過ぎないことを見て取っています。

神と民との人格的な関係を基礎づけるのは、主(ヤハウェ)の活ける言葉だけです。主の言葉こそ、信仰と行為の唯一の源泉であり、かつ唯一の導きの綱です。そうであるがゆえに、主の言葉は救済の唯一の保証となりえるのです。主の言葉を欠く、あるいは主の言葉にとって変わる、どの様な人間の知恵による供儀も、真の信仰を生むことはありません。また、正しい導きを与えることも、救いの保証となりえないことを、エレミヤは明らかにしています。
10-12節の威嚇の言葉はギリシャ語の70人訳聖書には欠落しています。これらの言葉は、細部における相違を除けば、ほぼ6章12-15節の反復であるといえます。9節以下に具体的な威嚇の言葉がないので、その空白を埋めるために編集者によって、これらの言葉が後に他のところから加えられたのではないか、という学者もいます。その可能性は否定できません。

13節は、9節で提出された問いに、葡萄の木といちじくの木の不毛性によって答えています。エルサレムの民が人間の知恵で考えた供儀律法で、神への信仰を代用し、それでもって真の神の言葉を語る預言者を追っ払い得ると信じたその「知恵」は、実は、神が審判において刈り取りをなすときには、何の実をも結ばない、何の役にも立たないものでしかない、といわれています。

本当は豊かな実を結ぶことが期待され、実を結ぶはずのものとして植えられた木が実を結ばず、葉はしおれ、すべてを失う惨めな結末を迎えるその姿は、神に逆らう人間の知恵による供儀礼拝とそれに依存する信仰の惨めな結末を表しています。
そしてそれは、立ち帰ることのない背信の罪の悲惨さを示すだけでなく、豊かな実を結ぶことを期待したのに、それを得られなかった農夫の深い悲しみを人々に連想させて、神は、農夫のように、民の実を結ばない信仰、神の真理に従わない生き方に、深く嘆き悲しんでおられる、とエレミヤは語ります。

農夫は、実を結ばないぶどうの木やいちじくの木を忍耐して、実を結ぶよう手を尽くして育てます。しかし、最後まで実を結ばない木は、農夫自身の手によってやがて捨てられることになります。エレミヤの語る言葉から、民は自分たちが「実を結ばない木」が投げ捨てられる存在であることが明らかにされたと十分認識できたはずです。そうであるなら、この言葉を退ける者を、主がどのように扱われるか、彼らは十分知りえたはずです。主の言葉に聞き従わない実りのない生活は、それ自身で滅びの現実を示しています。

マルコによる福音書11章12節以下に、空腹を覚えられた主イエスが、遠くに葉の茂ったいちじくの木があるのをごらんになって、期待して近づかれたところ、葉のほかは何もなかった様子を見られ、がっかりされて、その木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた言葉が記されています。
エレミヤは、実を結ばない背信のエルサレムを主がどう扱われるか、9節において、「賢者は恥を受け、打ちのめされ、捕らえられる。」と述べています。

この審判の言葉は、主イエスが述べられたいちじくの木ののろいの言葉と本質において一致しています。「主の言葉を侮っていながら」、自ら知者と称し、人々を誤って指導していた律法学者や祭司長たちの偽善を、主イエスは告発されました。そして、主の宮である神殿を商売の庭にしていた両替商や犠牲にする動物を売っていた屋台をひっくり返し、宮清めをされたのは、まさにエレミヤのこれらの言葉とおなじ信仰に立っての事であります。

心を主に向け聞くことを欠いていながら、「偽る筆」をもって律法を変え、異教化した、偶像化した祭儀を守るだけの、真の悔い改めのない信仰は、主によってそのように扱われるしかないということを、厳しく心に刻む必要があります。しかし、これらの言葉を告げる神は、私たちに真実に立ち返ることを求め続けておられる愛に満ちた方です。その意味を理解する時、わたしたちは、このエレミヤの言葉を、わたしたちに向けられた福音として聞くことができます。

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