エレミヤ書講解

10.エレミヤ書6章1-15節『差し迫った破滅とエレミヤの対話』

6章には、迫り来る戦争と、それが起こらねばならなかったその宗教的背景をめぐる預言のことばが、再び一つに纏められています。1-8節には、エルサレムを取り囲む北からの敵の攻撃が語られ、9-15節には、エレミヤと神との対話が記されています。この預言の背景になっている状況は、4章の最後の部分と関連しています。

エルサレムの町は、今や、北から南に向かって攻めたてて来る敵の戦場となることが語られています。エルサレムが、住民のために果たしてきた避け所としての役割(4:6参照)は終わったことが語られています。

エレミヤは、ユダに向かって主からの審判と警告の言葉を繰り返し語りました。しかし、この民はそれを無視し続けたため、神が行う自分たちに向けられる審きを不可避なものとしてしまったことが明らかにされます。

かくてエレミヤは、北からの攻撃者を神の審判の手として語ります。その攻撃を受け、エルサレムに避難してきたベニヤミン族の人々に向かって警告を発しています。彼らが安全と思っているエルサレムも決して安全ではなくなったからです。だから、エレミヤは危険にさらされたエルサレムを去り、ユダの荒野付近の道もない山地に逃れよと警告します。テコアは預言者アモスの故郷でありました。エルサレムからは南方19キロほどのところにあり、徒歩で5時間ほどかかるところにある高台にある町です。その町で角笛を吹き鳴らし、ベト・ハケレムに向かって避難の道しるべとなるように、「のろしを上げよ」とエレミヤは命じることによって、「北ら来る破局」が切迫していることを暗示的に語っています。

2節で、エルサレムは「美しく、快楽になれた女、娘シオン」と呼びかけられています。エルサレムは豪奢な建物を連ね、ヤハウェの神殿を擁する町で、神によって優遇されているが故に誰も侵しえない、とエルサレムの住民は思い込んでいました。しかし、神はそのエルサレムを滅亡に引き渡されるというのです。エルサレムには、敵が群れを率いる牧人のようにやって来て、栄光に包まれた町のそびえる丘は、荒れた牧草地に変えられ、没落が準備されるというのです(3節)。

ここで預言者のまなざしは敵陣に向けられます。4節の「戦闘を開始せよ」は字義通りに言えば「聖なるものとせよ」です。ここには神の神聖なる業としての「聖戦」の観念が示されています。しかし、この戦争において、その戦闘行為が聖とされるのは、イスラエルではなく、「北からの敵」です。彼らは主の審判の手として、これを「聖なるものとせよ」と呼びかけられているのです。

6-7節は、この敵の攻撃がこれほど狂暴なまでに戦闘的である背後には、恐るべき理由があることを示しています。

まことに、万軍の主はこう言われる。
「木を切り、土を盛り エルサレムに対して攻城の土塁を築け。
彼女は罰せられるべき都 その中には抑圧があるのみ。
泉の水が湧くように 彼女の悪は湧き出る。
不法と暴力の叫びが聞こえてくる。
病と傷は、常にわたしの前にある。」(エレミヤ6書6-7節

敵に包囲の命令をくだすのは、万軍の主、ヤハウェ自身です。ヤハウェはイスラエルにおいてのみ主であるというのではない!ヤハウェは外国の軍隊の主でもある!ヤハウェの威力は、その民の領土の中だけに限定されたものではない!今や敵の軍隊は、エルサレムに対するヤハウェの審判の執行人として、ヤハウェに仕えている。ヤハウェがエルサレムに対してこのように判決をくだしたのは、「その中には抑圧があるのみ」であったからです。 エレミヤは、水を湧き出させる泉の比喩を用いて、その根から腐りきっているエルサレムの町の姿を際立たせています。この町が根っこから産み出すものは悪そのものであり、エルサレムはそれを絶え間なく繰り返し産み出していました。それゆえ、エルサレムは暴虐と抑圧で評判の町となっていました。

それにもかかわらず、エレミヤの預言の言葉はまたもや警告で終わっています。8節の警告の言葉は、もし民がその警告を真剣に受け入れるならば、最後の最後まで自分の民との契約を保持しようとされる神の意思がなお継続していることが明らかにされています。この警告と威嚇の言葉が発せられる最も重要な動機は、神の愛であることが、この言葉の中に表れています。神の警告と威嚇の言葉は、神の心は今もなお民を愛しているという事実を前提にして語られています。この神は、「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。」(ヨハネの黙示録3章19節)といわれる神です。

9-15節は、その事実を前提にしたエレミヤと神との対話が続きます。 民に対する神のこの愛の力は神の忍耐として表わされています。この神の忍耐は、9-10節において、明瞭に示されています。それは、預言者が民に我慢し切れなくなったときに、しめされています。エレミヤは、語れども、語れども、悔い改めを示さない民を前にして、疲れ切り、意気消沈していました。しかし、まさにそのような瞬間に、エレミヤは神からの命令を受け取りました。

「ぶどうの残りを摘むように
イスラエルの残りの者を摘み取れ。
ぶどうを摘む者がするように
お前は、手をもう一度ぶどうの枝に伸ばせ。」(9節)

エレミヤに与えられた命令は、このように、葉影に隠れて実がまだ残ってはいないかと、一本ずつ蔓を手に取って確かめるぶどう摘みのように、「イスラエルの残りの者」を幾度となく探し集めるように、探せというものでした。

主の御言葉は、エレミヤ自身の思いとはまったく相いれない方向から臨みました。これは、エレミヤ自身を人間的弱さと預言者としてのつとめとの間の深い葛藤へと投げ込まずにはおかない神のことばでありました。人間的に見れば、聞こえぬ耳に語るだけならまだしも、神のことばを語り手もろとも蔑む大勢の人々からの嘲笑を浴びて、己の努力がまったく水泡に帰してしまったとエレミヤは感じ、失意の真っ直中にありました。それゆえ、エレミヤが魂の看取り手としての働きを行っていく勇気を失ってしまっていたとしても不思議ではありません。わたしたちには、それはよく理解のできることです。それゆえに、神のこの命令はエレミヤを救いようのない混乱に陥れる結果となりました。エレミヤはその苦悩を次のように告白しています。

誰に向かって語り、警告すれば
聞き入れるのだろうか。
見よ、彼らの耳は無割礼で
耳を傾けることができない。
見よ、主の言葉が彼らに臨んでも
それを侮り、受け入れようとしない。
主の怒りでわたしは満たされ それに耐えることに疲れ果てた。(エレミヤ6章10-11節)

11節の「主の怒りでわたしは満たされ それに耐えることに疲れ果てた」というエレミヤのことばが彼の苦しみと混乱の大きさを物語っています。神ゆえに屈辱に耐えて苦しまねばならぬことは、神の証人として立てられる者の宿命です。エレミヤは既に召命に際して、そのことが予め告げられていました(1章19節)。生まれながらの人間は、そのままで神のことばを聞き取ることはないし、聞き取ろうとしません。そのような民の愚鈍さと対峙しながら語らねばならないところに、預言者の苦悩があります。神のことばは人間の力によって繋ぎ止めることが出来ません。民がどんなに蔑もうが、神のことばは実現します。また預言者が神のことばを蔑む民に聞かせようと努力しても、彼らを説得することができません。預言者自身の力によって聞かせることは出来ません。しかし、神のことばは神のことばであるゆえに、それ自体の力で働きます。預言者も民が聞かないからといって、神のことばを語ることから自らを勝手に引き離すことは出来ません。しかし、エレミヤはその苦悩の中から、自らの苦悩を解放することばとして神のことばを聞き取ります。それは、依然としてエレミヤの重荷となりますが、彼は語ることによって責任から解放されるのです。隅々まで彼を満たす神の怒りを、罪ある者にも、罪のない者にも、老若男女を問わず「主の言葉を」ふり注げと、主はエレミヤに命じます。

エレミヤが預言者として歩まねばならない道、それは、神の強制と彼自身に具わった他者への思いやりとの間の葛藤の中で、その繊細な感受性をもって次から次へと苦悶しつつ歩まねばならない道でありました。

12節の言葉は、北からの戦争による災禍が神の審判であることを語ります。この戦争の災禍は「わたしが手を伸ばすからだ」と説明されています。そのようにくだされる神の審判は徹底しています。

神の審判が民の財産にまで及ぶのは、彼らがすべからく所有欲に取りつかれているからです。預言者や祭司という民の宗教的指導者たちでさえ、例外ではありません。特に、預言者たちは、安易な仕方で、平和(平安)を語れないときに、平和を語り、救済を約束し、内的にも外的にも深い深刻な状況から聴衆の目をそらしていました(14節)。平和(シャローム)とは、ユダヤ人が日常挨拶で使う言葉ですが、それは、本来、人間の生活のために理想的な条件を作り出す社会的・自然的諸勢力の調和に満ちた統合を表わします。その調和を自ら破りながら、それを口にする預言者の虚偽性がここで告発されています。

このように徹底した堕落の状況は、もはや鎮静剤程度の処方では癒すことが出来ません。その疾患はただ真理によってのみ除去されるからです。しかし、民は依然として良心を失い、神の言葉よりも民衆の評判を気にして、彼らに口先でへつらって語る偽預言者たちの救済の約束に惑わされて、いっそう頑なになっていました。彼らは神の前に恥じらう心さえ失ってしまった。それゆえ、ついに神の真実が現れるために神の審判において恐るべき現実が表され、彼らは滅亡しなければならないのです。エレミヤは、このように狂信的で場当たり的な預言者と後に戦うことになります。彼らはエレミヤの最も危険な敵となります。

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