エレミヤ書講解

9.エレミヤ書5章1-19節 『神の審判の理由』

エレミヤは神に対しても民に対しても、独自の責任を負っていました。彼は預言者として、神の言葉と向かい合い、その真理性、正当性に対する真摯な態度で自己吟味が求められていました。エレミヤは神の行為の動機にまで入り込んで、彼に命令を下す神の御旨を探究し、理解しようと努めています。それは、エレミヤの信仰にとって必要な糧であり、告知すべく命ぜられたことを、内側から真実をもって受けとめねばならない預言者としての倫理の基礎でありました。神の内に基礎づけられたこのような個人的ありようと並んで、エレミヤは、民を悔い改めさせ、救いへと導く最後の機会さえも本当に尽き果ててしまったのか、と良心にかけて真剣に確かめようとしています。エレミヤの預言者のつとめへの凄まじい責任と自覚が、そうさせているのです。このことは、エレミヤがどんなに粘り強く神の赦しの愛を固く保とうとしたか、エレミヤが最後の最後までどんなにか民への愛によって生き方を規定されていったか、ということの証となります。

1-6節においては、背信の罪にも関わらず、それでも神はこの民を赦しうるか、ということが問題とされています。

エルサレムの通りを巡り
よく見て、悟るがよい。
広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか
正義を行い、真実を求める者が。

この問いは神と預言者との間の対話でなされています。この問いの背後には、預言者自身が、祈りと神との生きた交わりにおいて、神に開かれた姿勢を保たねばならないことが強調されています。大切なのは、エレミヤの人間的な懐疑や自己正当化ではなく、神の意思を洞察することです。

神の意思は、はじめから、報復にあるのではなく、赦しに向けられています。神の赦しの意思は、創世記18章22節以下に記録されているソドムの滅亡の記事においては、十人の「義人」がいれば、これに危害を加えないというものでありましたが、ここでは「正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう。」といわれています。正しいひとりの人のゆえにすべての罪人を赦そうというのです。しかもこのようなひとりの人を探し出すようにという命令さえ下されています。エレミヤはまさに神の捜し求める愛に応えて、エルサレムの町の通りに出て、正しい人がひとりでもいるかどうか捜し求めるために、神の使者として呼び出されているのです。1節は、義と誠実という神の要請が神の契約と救いに基づいてなされていることを明らかにしています。

しかし、そうであるがゆえに民への要求は満たされがたく、預言者の得る成果は否定的にならざるを得ません。エレミヤは、「『主は生きておられる』と言って誓うからこそ、彼らの誓いは偽りの誓いとなるのだ。」といって、民の口先だけの告白の背後に隠れている欺瞞を鋭く見抜いています。

3節において、エレミヤは、問いとはならない問いを主に向けています。「主よ、御目は真実を求めておられるではありませんか」という問いは、信仰の信実こそが神の要求であり、契約関係全体の基礎であり、その死活に関わる要因であることを明らかにしています。繰り返し、災いを通し、義なる契約の秩序に立ち帰るよう不従順な民に呼び掛けることによって、主は信実なる契約関係を保持されてきたのです。しかし、民の応答は、罪ある自己を認識せず、悔い改めもせず、感動を失った無関心と頑なな拒絶のみでありました。

エレミヤはこのような民にも、良心を込めて取り組む姿勢を崩しません。むしろ、エレミヤは決めつけるような見方をせず、貧しい人々に深い同情の目をもってみようとしています。彼らは貧しさの故に教育を受ける機会もなかったために、神の支配と神の意思を洞察することは困難なのだ、また日常生活の心配ごとや困窮が障害となって、彼らには神の定めにしたがって生活することが出来なくなっているのだと同情して看ているのです(4節)。

だから、エレミヤは「身分の高い人を訪れて語り合う」ことを試みるのです(5節)。彼らには貧しい人のような障害はなく、神の本質と意思を知る知力もあるから、彼らの中には善良な人を見出すことが出来るはずだという期待をもって近づきました。しかし身分の高さと富は、人間の態度を一層劣悪なものにしていることにエレミヤは気づかされます。彼らは自らが権力と能力を持つと思い込んで目がくらみ、意識的に神を拒絶し、神との関係は、すべて不快なもの、厄介なもの、と思って断ち切ろうとする人々でした。善と悪とは、その身分貧富の差に関わりなく、また生活形態にも関わりなく、社会の全階層に見られます。しかし、高い身分の人々、とりわけ指導者たちの善と悪に対する生活態度は、民衆の模範となるだけ、それだけ一層厳しい裁きの対象となります。エレミヤはそのことを深く捉えているだけに、まことに厳しい判定を下します。エレミヤの目には、彼らに神の赦しの糸口は何一つ存在せず、神の審判こそ当然の結末であるとエレミヤは語らざるを得ないのです。

7-11節も、神はこの民を赦しうるだろうか、との問いと関係します。

民に赦しが与えられないとしても、その責任は神の側にありません。民が自ら離反して「神でないもの」に向かってゆくことによって、神の赦しを不可能にしたからです。姦淫の比喩と「遊女の家に」群がる比喩は、バアル宗教とその狂騒的な祭儀の官能的性格を言い当てています。

9節においては、エレミヤは、もはや「お前を赦せようか」ではなく、「罰せずにいられようか」という主の問いを民に向けています。この問いにおいて問われているのは、神の問題です。神の尊厳、神の意思の権能と権威が問われているからです。民の側で契約の秩序を握り潰すのであれば、神は審判を通してそれを再建されます。もし神ご自身が蔑ろにされていることを真剣に受けとめようとされないなら、それは神ご自身の責任であるからです。

彼らは主を拒んで言う。
「主は何もなさらない。
我々に災いが臨むはずがない。
剣も飢饉も起こりはしない。
預言者の言葉はむなしくなる。
『このようなことが起こる』と言っても
実現はしない。」(12-13節)

ここには、エレミヤ自身の体験が語られています。神の預言者としてエレミヤは真摯な態度で神の意思を伝えました。しかし、民は無感動、無関心を示すだけでなく、神の権能と神の言葉に反抗し、拒絶しました。彼らはその不真実な態度によって無神論者となりました。人間は順調なときには、自らを過信し、無頓着な安易さを示します。偽預言者は偽りの平安を語り、彼らの安易さはその言葉によって助長されていたのかもしれません。神が真摯に受けとめられないところでは、警告と威嚇の言葉を語る神の使者としての真の預言者が冷淡に拒否されても、別に不思議ではありません。

しかし、14節の御言葉は、人間のどんな主張も、神の言葉を無力にすることは出来ないことを明らかにします。エレミヤは、預言者として派遣されたこと、神の委託を受けて語っていることが疑われていることを知り、エレミヤが自身のその苦い体験を吐露したまさにその瞬間に、神のことばがエレミヤに臨んだのです。神はエレミヤに神のことばの全権が託されていることを改めて保証し、火と薪の比喩をもって、人間のあらゆる反抗的主張を焼きつくす神のことばは、「火となり、この民を薪とし、それを焼き尽くす。」と断言されます。

さらに間髪をいれず畳み掛けるように、15-17節において、別の神のことばが続きます。不実のイスラエルに表される神の審判は、異邦民族による恐るべき侵略であるとの威嚇のことばが続きます。この侵略者は、理解を絶する言語、圧倒的軍事力、飽くことを知らない強奪欲を持つ、といわれています。4回繰り返される「食い尽くす」ということばは、14節の「焼き尽くす」ということばと響きあっています。この民が神の力に頼ろうとせず、自分たちの堅固な町まちに避難することがいかに愚かしいことかが暗示されています。そして、異邦の民の軍隊もまた神の命令の下にあることをこの御言葉は語っています。そうであるなら、この異邦の侵略者は神の審判の道具として用いられていることになります。

18、19節は、破局後のことが視野に入れられているので、この部分は捕囚期になされた付加的な記事であろうという見方があります。それが事実であるなら、異邦の侵略者は神の審判の道具として、イスラエルの家の罪を裁くために徹底的に「破壊する」というエレミヤの預言が事実として起こったことを捕囚の民は見たのですが、それでも滅ぼしつくされずに残ったという事実も同時に見ています。それゆえ、その二つの事実は一つの問いを生むことになります。18節の言葉は、エレミヤの預言は、罪ある民への絶滅の言葉ではなく、悔い改めを求めての審きであったという意味に、捕囚の民には解されたということです。罪を犯した者は一度徹底的に神の審きに服さなければならないが、「そのときですら」と主は言われる。「わたしはお前たちを滅ぼし尽くしはしない。」(18節)という意味で、彼らはエレミヤの言葉を理解したということではないでしょうか。そのことは、「ぶどう畑に上って、これを滅ぼせ。しかし、滅ぼし尽くしてはならない。」(10節)という主の言葉にも根拠を求めることができます。これは、信仰的には非常に重要な意味を持つ一つの理解の方向性を示しています。

そこから、「何故、我々の主なる神はこのようなことを我々にされたのか」(19節)という信仰的な問いを生み、あなたはこう答えよ、といって、現在異国の地で、異国の民に仕えねばならない悲惨の現実は、「あなたたちはわたしを捨て、自分の国で異教の神々に仕えた。そのように、自分のものではない国で他国民に仕えねばならない。」といわれた審きの結果として、現在の悲惨な現実があると受け止めたということではないでしょうか。そうであるなら、「しかし、滅ぼし尽くしてはならない。」(10節)という言葉は、捕囚の民にとって、希望の言葉として新しい響きを獲得したことになります。神は悔い改めを求めて、そのような審きをされたのであり、もう一度エレミヤの言葉に耳を傾けて聞き、主に立ち帰るなら、主はこの悲惨な現実から解放し、救い出してくださるかもしれない、否、必ず救い出してくださるはずだという信仰から生まれた付加であるということになります。これはエレミヤの預言を聞く一つの信仰のあり方を教えてくれるという意味では重要です。しかし相変わらず悔い改めないならば、「それは火となり/この民を薪とし、それを焼き尽くす。」という厳しい審きがあるという現実から目をそらさず、この言葉を聞くことが大切です。

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