エレミヤ書講解

3.エレミヤ書1章11-19節『二つの幻と派遣の言葉』

エレミヤ書1章11-19節には、エレミヤに示された二つの幻の出来事と、彼に与えられた派遣の言葉が記されています。

11-12節のエレミヤの幻視体験は、アモス8章1、2節の幻視体験と似ています。エレミヤは、預言者として召命を受け、その際に約束された神の言葉がどの様に遂行されるか、毎日思いめぐらしていました。この時の幻も、エレミヤが神の召命のことを思いめぐらせて、ぼんやりとアーモンドの木を眺めているときに与えられたものであると思われます。エレミヤはアーモンドの枝に目を向けていたとき、神に何を見ているのかと語りかけられて、彼が既に預言者として召されていることを自覚させられていきます。

「エレミヤよ、何が見えるか。」という呼び覚ます神の声を聴いて、エレミヤは思わず、「アーモンドの枝が見えます。」と答えました。新共同訳聖書は「アーモンドの枝」のヘブル語がシャーケードであることを示していますが、シャーケードは「見張る者」を表します。エレミヤは神の召命のことを思いめぐらしながら、シャーケード(見張る者)に目を向けていました。エレミヤはこれを見つめている時、神から語りかけられ、シャーケードという言葉を口にするのですが、エレミヤはその言葉を口にすることによって、この過ぎ行く世界のものである「アーモンドの枝」が彼の内面の中で神的なるもののたとえとなり、エレミヤの思いは神的なものに満たされていきます。つまり、エレミヤの思いは「アーモンドの枝」を見ることによって、「見張る者」へと満たされていくのです。エレミヤは、主(見張る者)はわたしの口の中に入れたそのことば(9節)を本当に遂行されるのであろうか、といった問いが心に生じました。しかし、エレミヤは自ら答えたその言葉が橋渡しとなって、神の言葉が遂行されるかどうか神ご自身が「見張っておられる」(ショーケード)という解釈を、神から与えられます。シャーケードとショーケードは、aが曖昧に発音された古代ヘブル語では、その発音は良く似ていたといわれます。

この体験には、一方で、神の言葉は本当に信頼できるかどうかというエレミヤの究極の確信を巡って苦闘する姿が示されています。しかし、その確信をめぐってアーモンドの枝を眺めるエレミヤに、神は、目に見えるしるしを通して、この確信を強固なものにされました。

しかし、もう一方で、この出来事は、もしエレミヤにはじめから、神の召命がその心に引き起こした種々の思いに満たされる、ということがなかったならば、普通の人なら目もくれずに通り過ぎてしまうアーモンドという日常的な対象物が、彼にとって特別なしるしとなることもなかったであろうことを示しています。

日常生活の直中で神によってなされるこの種の啓示は、誰に対しても開かれているわけではありません。神の召命をいつも思いめぐらす預言者の思いがあってこそ、一見もの言わない事物が意味ある神の言葉となったのです。持続的に神の御声を聞き、神との持続的な祈りの対話があってこそ、はじめてこのような預言者の体験は可能となり、理解されるのです。それゆえエレミヤにとって、神の言葉を伴う霊感とは、一回限りの出来事ではありません。一度呪術的な力を与えられれば、後は自動的に、預言者は神の言葉を語ることができるということではなく、エレミヤにとって、神の言葉を伴う霊感とは、ご自身のことばを「見張る」神(その人格を通してご自分のことばに働く神)との、生きた人格的な関係に基づくものにほかならなかったのです。

エレミヤに与えられたこの幻の体験は、わたしたちの御言葉と祈りの生活のあり方を問うものでもあります。神の召命に対する信仰は、自己の強い確信によって強められるものでありません。信頼しきれるかどうか軟弱に揺れ動く心の中で、持続的に神の御声を聴き、神との持続的な祈りの対話の中で啓示を受けたエレミヤの体験は、神の御声である説教を聞くわたしたちにとっても可能な体験であり、必要とされる態度であります。神は御声に聞き従わないユダの亡国を、預言者によって告知されますが、この国の救いの可能性は、まさしくその神の手となって裁きを告げる預言者の声を聴く態度の中にあることが示されています。信頼しきれるかどうか軟弱に揺れ動く心の中で、持続的に神の御声を聴き、神との持続的な祈りの対話の中で啓示を受けたエレミヤの体験は、どの時代を生きる民にとっても、学ばねばならない信仰の大切な姿勢です。

13節はエレミヤが見た第二の幻です。この第二の幻においてはじめて、エレミヤが神のことばとして告知しなければならないことの輪郭が描かれています。この幻は、おそらくエレミヤが家で思い耽りながら、土鍋の前に立っていたときのことであると思われます。鍋の下には火が燃え盛り、鍋からは湯気が立っていたと思われます。その鍋の表面をエレミヤは眺めていたと思われますが、その鍋の表面は北からエレミヤのいるこちらに傾いていたので、中身がこちらの方にこぼれそうになっていたのでしょう。

神は、再び、このような日常の出来事の中から、思いに耽る預言者に語りかけられます。そして、エレミヤが見ている光景は、神がなさろうとすることの象徴的なしるしとなります。「北から災いが襲いかか」って、ユダの上に降りかかるという預言が14節に明らかにされています。このエレミヤの体験の前提には、エレミヤが来るべき災いについて以前から思いを深めていたということがあります。エレミヤは既に、アッシリアによって滅ぼされた北イスラエル王国の滅亡の原因を洞察していました。だからこそ、煮えこぼれそうになる鍋の観察が濃縮されて、それが神の威嚇のことばとなりえたのです。

この言葉は15節に引き継がれてゆきます。神ご自身が北の諸王国を戦いへと招集し、彼らは権力の象徴である王座を「エルサレムの門の前に」据え、都エルサレムをユダ王国の地方諸都市もろとも攻め囲む、というのです。ここに描かれている政治勢力は、当時の世界の政治的状況と異なります。エレミヤは事柄を政治的な観点からではなく、神から見ています。神こそ政治的な出来事の真の動因であるからです。エレミヤに示されたことは、40年後、ユダの没落の中でネブカドネザルによって実現しますが、そのことについては、ここではまだ語られていません。

ユダがなぜ滅ぼされねばならないのか、16節にそれが明らかにされています。

ユダに差し迫る災いは、契約の主としての神の民に対する、神の当然の責任追求の権利に基づく、神の審判であることが明らかにされます。この叱責のことばは、審判の理由を、神の民は神に忠実であることが絶対的に義務づけられている、ということに置きます。にもかかわらずこの民が神から離れ、背き、不信実になって、十戒の第一、第二の戒めに禁じられている偶像崇拝や自分の手で造ったものへの崇拝を行っていることなどが、民の根源的な罪として非難されています。この罪は契約関係を破るものであり、当然審判を受けるべきものでありました。このことは、既に100年以上も昔に、ホセアが明確に洞察した事でありました。エレミヤは、今、再び、この事態を問題にします。もはやまことの神を持たず、それゆえに自分たちの願望にしたがって自らの手で神々を造り、その自分たちの手の業の前に、自ら跪いて礼拝するところに人間の根本的な倒錯があります。神ならぬものへの繰り返される倒錯を、神は決して許されません。その最後は滅びでしかないことを民に告げるために、エレミヤは預言者としてたてられたのです。

17-19節は、エレミヤへの派遣の言葉が記されています。エレミヤは二つの幻を通して、ついに神の計画の何たるかを知るに到ります。そして今や、神の御旨を民に告知する時が来、エレミヤは神の派遣命令を聞きます。戦場に向かう兵士は腰に帯びして出掛けます。同様に、エレミヤも神の戦士として戦いを敢行すべく備えねばなりません。「あなたは腰に帯を締め」とは、エレミヤを神の言葉を宣べ伝える戦士として備えよとの神の命令です。7、8節で神によって将来の展望として示されたことが、今や派遣命令として、彼のところに届きました。内省的で引っ込み思案なエレミヤに、神はふたたび、力強い言葉をもって彼を激励し、鼓舞されるのです。

彼らの前におののくな
わたし自身があなたを
彼らの前でおののかせることがないように。(17節)

この神の激励は、エレミヤにとって大きな励みとなります。エレミヤは元来、引っ込み思案で、人を恐れやすい性格の持ち主です。しかし、人間を恐れる心は、神を恐れる心の欠如に由来しています。多くの者は、そこに人を恐れる真の原因があるということに気づいていません。神はエレミヤに人を恐れるなといって、人を恐れることに対する罰が、実際彼らの前でエレミヤをおののかす事であることを示されます。そうすることによって、真に恐るべきは、人ではなく神であることを示します。エレミヤが人を恐れるなら、それ自体が神の罰としての恐れに他ならない。言い換えれば、自らを派遣する神に信頼しないことに対する罰であることを神は示されるのです。そこまで深く事柄全体を支配し導かれる神を、人は恐れねばなりません。ただ、神への恐れのみが人間に対するあらゆる危惧の念を克服させることができるのです。イザヤ書8章13節において、「万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主。」と言われています。神がこのような厳しい言葉を語ったのは、若く気の弱いエレミヤを預言者として立たせるためです。彼を本気で預言者として立てようとしておられるがゆえに、神は厳しく語られるのです。

このことばは、弱き人間が危機に瀕したまさにその時に、力強い支えとなります。エレミヤを預言者として困難な第一歩を踏み出させるのは、後の日に与えられる報酬や成功を示す安易な展望ではありません。ただ神への恐れと服従と信頼の中で自らを絶対無条件的に神に委ねきること、これが神と神からの召命を帯びた者とを結ぶ絆となりえます。エレミヤはどのような種類の自惚れを、毫も持ち合わせていませんでした。それは、彼自身が面目を潰すようなこの神の訓戒をさえも記したという、まさにその事実から明らかです。

エレミヤの派遣にともなうことばは、わたしたちにも大きな意味を投げかけています。神は人にある恐れを決して取り除かれません。そうすることによって、わたしたちの信仰を問い、召命を問われます。信仰も委ねられた職務も人が全うできるのは、ただ神を畏れ、神に委ねきる場合に限るということをこれらの言葉は示しています。神への畏れのみが人間に対するあらゆる危惧の念を克服させる唯一の力です。恐れに包まれる最大の危機に瀕したその時にこそ、これらの言葉は、力強く支え立たせる支えの腕となります。神は決して安易な報酬や成功を約束しません。人を恐れているそのような状況において、人ではなく神のみを畏れ、神のみを信頼し絶対無条件で神に委ねきる信仰を私たちに求めておられます。

そして、神はご自分で選んだ預言者を覚えておられます。だから、危険を伴う命令だけを与え、彼をひとり放り出すようなことはなさいません。神はエレミヤに一つの拠り所を与えておられます。この命令の後には約束が続いています(18、19節)。この約束こそ、エレミヤが苦境に陥ったときに神が与える救いの綱となります。エレミヤを「堅固な町」、「鉄の柱」、「青銅の城壁」として、ユダの王や高官たち、その祭司たちや国の民に向かわせる、といわれます。神は決して余計なことは語られない。ここで語られるのは、エレミヤを「堅固な町」、「鉄の柱」、「青銅の城壁」とするという約束だけです。それは、エレミヤが柔弱な男でしかない故に、不可能に見える神の約束です。ですから、エレミヤを「堅固な町」、「鉄の柱」、「青銅の城壁」とするという神の約束は、神の不思議なる力に対して無条件に信頼する勇気を要求しています。だから、この約束にも困難で深刻な戦いの多い暗い未来がたちはだかっていることが示されています。エレミヤは、まさにそのような事態に直面しなければならないことが暗に語られています。預言者は聖別された神の人であるから、誰からも侵されたり攻撃をされない不可侵な者として敵から守られている、という安易な考えはここにはありません。ここにはエレミヤを勇ましくさせるような堂々とした勝利、凱旋を約束するようなものは何もありません。エレミヤに約束されたのはただ、「わたしがあなたと共にいて、救い出す」ということだけです。しかし、それゆえに「彼らはあなたに戦いを挑むが、勝つことはできない」という事実を信仰の目で見ることが可能となります。エレミヤの生涯は様々な危機に直面します。内的な心の葛藤、外的な戦い、殊に、迫害、投獄、拷問、死の恐怖などを経験します。エレミヤはそれらすべてを経験しつつ学ばねばならないのは、その中にも、「あなたと共にいて、救い出す」といわれる神が共におられる、という恵みに満足することでありました。この恵みの故に、あらゆる困難にあっても彼を救い、支え、保たれている、それゆえに約束されたすべてのものを、有するということです。

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