イザヤ書講解

70.イザヤ書63章7-14節『主の恵みの御業を思い起こそう』

イザヤ書63章7-64章11節は、詩篇で用いられている「民族の嘆きの歌」に属し、民族の詩篇の伝統構造に従った礼拝共同体の歌であるが、その伝統構造に比べて多くの独自のものがある(ヴェスターマン)、といわれています。

63章7-14節は、これまで神が行なわれた救済のわざの回顧を、「独立した歴史詩篇」へと拡張しています。神への直接の呼びかけと、本来の嘆きの歌とは15節から始まります。この詩篇はそこから普通の構成になっています。

7節の導入部の言葉、「わたしは心に留める(思い起こそう)、主の慈しみと主の栄誉を/主がわたしたちに賜ったすべてのことを」は、神の以前の救済行為の回顧(7節後半―14節)の導入の言葉として用いられています。この同じ形式が詩篇89編2節にも見られます。民族の嘆きの開始部分に、神の以前の救済行為を回顧する導入する形式は詩篇44編(2-9節)にも見られます。これら三つの嘆きの詩篇は、いずれもほぼ前587年のエルサレム陥落後間もない時代に成立している、といわれています。破局という現実を前に、それはいかなる意味を持つのかという問いを立てることによって、そこから希望への転換の可能性を見出そうとする苦悩の姿を見ることができます。それゆえ、その歴史は自らの生い立ちとの関係でどうであったのかという形でとわれることになり、この時代には、必然的なこととして歴史回顧は重要な意味を持つことになりました。特に、イスラエルは神の選びに与り、神の約束に生きる民として、神との間に契約を結んだ民として、その契約に対する神の愛(現実に現された神の救済意志と救済行為)を受けて、彼らがどのような信仰の応答をしたかが、その歴史の中で常に問われる存在であるという自己理解をもつことが求められていました。この時代に登場した「申命記史家」(「ヨシュア記」、「士師記」、「サムエル記」、「列王記」の諸書の著者で、「申命記法典(モーセの第五書)」をいわば指導思想として、過去を顧みることによって現在への定位と未来に向けての指針を与えようとした)の歴史著述も、そのような自己理解と罪の告白と結びついた総括的回顧から生じたと考えられます。

報告的なほめ称えを開始する7節の言葉を語る者は、神の業を思い出そうとしています。神の恵み深いわざをありありと描き出すことによって、恵み深い意志が呼びかけられる。その意志がこれらのわざを実現したのを知るこの人物は、いままたそのわざを願い求めるのであります。ここでは、神の恵みと神の恵みあるわざとが近い関係にあり、共同体のほめたたえと、そのほめたたえでもってほめたたえられる事柄とが近い関係にあることが明らかにされています。歴史の中で経験された神のわざは、一方では神の存在と密接に関係し、他方ではそのわざに出会ったものたちの応答と密接に関連する、ものとして認識されています。神のわざは動詞ガーマル(なす、与える)によって表わされています。

8-9節は、民に対する神の恵み深い働きを総括しています。神は民と結んだ契約でもってイスラエルをご自分の民としたゆえに、7節の導入の言葉を持って神の恵み深い意志と歴史の中に示された恵み深いわざとが一致して表わされたことを確証されました。しかしこの契約締結には、イスラエルが神の子として忠実に神の側につく、という期待がありました。神は契約の締結によって始まった歴史の中で、「彼らの苦難を常にご自身の苦難とし」(9節)、「救い主となられ」(8節)て、「御前に仕える御使いによって彼らを救い/愛と憐れみをもって彼らを贖い/昔から常に/彼らを負い、彼らを担って」(9節)、ご自身が、救い主、贖い主、保護者であることを証明されたのであります。イスラエルは自分たちの神をこのように理解し、また、「慈しみ、愛、憐れみ」などの表現でもって神との出会いの経験を「常に」(9節)保持することができました。

民に対する神のわざはすべて、応答、反応、反響を期待しています。8-9節で神によっていわれたことに対する通常期待される自明の応答は、服従、ほめたたえ、奉仕です。しかし実際になされたイスラエルの応答は全く理解しがたく、奇怪なものでありました。

「しかし、彼らは背き、主の聖なる霊を苦しめた」(10節)のであります。「苦しめる」は、ヘブライ語の強意語幹(ピエル)では、「侮辱する」という意味になります。「主の聖なる霊」という概念は、旧約聖書では、この箇所と、詩編51篇にだけに見られます。8-9節には、多くの単語で持って神の恵み深い慈しみだけが述べられていますが、10節では、侮辱されているのは神の慈しみではなく神の聖さであるといわれています。これは旧約聖書の思惟にとって特徴的な点です。神の慈しみを侮辱する者は神の神聖さに出会う。しかしそれと同時に、神ご自身において一つの変化が現われます。そこでは神は民への敵対者に変わります。この変化を引き起こすのは、侮辱された神の聖性です。ここに歴史の出来事の核心があります。神の聖が傷つけられるところでは、すべてのことが今までのように進展することができません。まさにこのことが、この説の際立った反対命題の中に混じって響く預言者的使信の核心であります。

11-14節には、民族の嘆きの詩編の不変的な構成要素をなす「神の昔の救済行為への回顧」という本来の回顧がなされています。これは旧約聖書において見られる、歴史を現在化する決定的な動因の一つであります。エルサレムの陥落とバビロン捕囚という深刻な崩壊に直面して、歴史の連続性と歴史的関連とがどのように経験され、獲得されたかを、私たちはここではじめて知ることができます。この破局という現状はまさに、ただ民に向けられた神の対抗的行為(神の聖を侵された怒りとしての審判)だけを示すので、信仰共同体はその固有の過去においてまったく別の仕方でご自身を表わされたこの同一の神に、激しく望みをかけるのであります。この過去の喚起は、過ぎ去った事柄の痛切な「嘆願」の拠り所です。この共同体が今なお「保持している」ものは、今対抗する神と、かつての恵み深い神とが本質において同じである(一致する)という信仰以外の何物でもありません。それゆえ共同体は全力をつくして、この神とその恵みの歴史を「想起しながら」、この神の本質的一致にすがっているのであります。

かつての出来事を激しく追い求めるその姿勢は、11節3行目と5行目の「どこにおられるのか」という語において表わされています。11-14節では、エジプトからの脱出における神の救いのわざが想起されています。ここでは、神は、「群れを飼う者」と呼ばれ、モーセは、「聖なる霊」(11節)をうちに与えられた者として、また主の「御腕」(12節)の力を持って、主の栄光を表わす者として行為したことが民に意識されています。

ここで際立っていますのは、すべての神の働きが神の霊または神の聖なる霊に帰せられていることです。ここでは、神の霊の働きが歴史の中での神の働きとして限定されている点で、新約聖書と区別されますが、新約聖書のプネウマ(霊)ときわめて近い関係にあります。

11節後半から12節前半において、僕モーセにおいて、またモーセを通しての神の働きが語られていますが、12節後半から14節においては、神だけが民の指導者であり、救済者として示されています。主はイスラエルの前で「海を二つに分け」られた方です。神はこれによって「とこしえの名声を得られた」のであります。神はそのわざにより、イスラエルをエジプトの追跡者から引き離し安全な場所へ導かれたのです。分けられた海を通る道は、乾いた地である「荒野を行く馬のように」(13節)、その足をしっかりと地面をとらえて歩くことも走ることもできます。またこの道は、水場を求めて「谷間に下りて行く家畜のように」(14節)平穏であります。「主の霊」はそのように隠れたところへ導き、「彼らを憩わせられる」方です。

13,14節は、イスラエルにとって歴史が何を意味するかを示す印象深い例です。その歴史は神との出会いの本来の場です。主の民であるイスラエルのその絶頂と深淵とを伴う歴史の激動は、彼らの神が生きているということ、人間には理解しがたい憐れみと恐るべき神聖さとを証言するものであります。それは歴史そのものが彼らに神を現したということではありません。むしろ神が歴史の中で彼らに語り、それゆえ御言葉の中で歴史が現われ、また御言葉が歴史の中で神の働きに伴ったのであります。だから、神が語るということは、いつも行動と結びついていたということです。神が語るということが歴史から引き離され、その結果、人が歴史の脅威と深淵から切り離されて神の言葉を持つということは決してありえないことです。神の言葉と歴史を切り離すとき、歴史の空洞化と信仰の空洞化とが同時に引き起こされることになります。このことは、旧約聖書を読むときに、特に注意しなければならない大切な点です。

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