イザヤ書講解

69.イザヤ書62章1-12節『わたしは決して黙さない』

イザヤ書62章は、第三イザヤの特徴を最も明瞭に示す章です。60-62章の三つの章の根底には、嘆きの要素があります。60章では、敵についての嘆きが、それとは逆に諸国民がシオンへ向かう行進をすることが栄誉回復として示されています。61章では、「わたしたち」の嘆きが、それとは逆にシオンの再建と栄誉の回復が告げられています。そして62章では、神への告訴(嘆き)に対して、神がもう一度御顔をご自分の民にむけられたとの告知が、それを逆転させるものとして語られています。

この章は、生き生きとした張りのある未来への展望を「まで」(アド)という語によって示しています。イスラエルの民は、国の滅亡が「いつまで」(アド・マータイ)続くか嘆き、不安と絶望の中で、「主よ、あなたはいつまで、あなたの民に対して怒られるのですか・・・」と問い続けていましたが、いまやその問いに代わって、絶えず神に向かって約束を生かしてくださいと求め、約束を絶えず思い起こしていただくということが現われるまで続けることが、1、7節において明らかにされています。

詩篇137編は、捕囚にされたイスラエルの民がバビロンの流れのほとりで歌ったシオンのためのなげきとして有名な歌ですが、その中で、詩人はエルサレムを忘れることのないように歌っています。ここでは、預言者は、

シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず
エルサレムのために、わたしは決して黙さない。
彼女の正しさが光と輝き出で
彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。

と語っています。第三イザヤがなぜそこまで「黙さず語り続ける」ことができるのか、なぜそうしなければならないと考えるに至ったのか、それは、61章1-3節で言われた派遣に対する確信にあります。

主はわたしに油を注ぎ
主なる神の霊がわたしをとらえた。
わたしを遣わして
貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。
打ち砕かれた心を包み
捕らわれ人には自由を
つながれている人には解放を告知させるために。(61章1節)

という言葉は、第三イザヤの預言者としての変わらざる確信でありました。彼は召命の日に与えられたこの主の約束に固執するが故に、その約束が実現し、エルサレムの名誉が回復される日まで、決して黙すことができません。

第三イザヤは、神の約束を公然と告知するために、神の救いが到来するまで、たえず「主に思い起こしていただく」(6節)ためにその業を続けることに自分の使命を見出している預言者です。それは、ゼカリヤ書1章12節の「万軍の主よ、いつまでエルサレムとユダの町々を憐れんでくださらないのですか。あなたの怒りは七十年も続いています。」という嘆きに表わされている当時の状況を反映した、切なる願い、祈りの言葉です。しかしそれは、単なる祈りとしてではなく、主の約束にすがりつく希望の告知としてなされています。

その救いの到来は世界の法廷の前で、「諸国の王と民」(2節)を前にした法廷で出来事として語られています。2節に「新しい名」についての言及がありますが、エルサレムに与えられる「新しい名」は、その名誉の回復と救いをあらわすものとして示されています。

エルサレムの古い名は、「捨てられた女」(4節)、その土地は「荒廃」と呼ばれていました。それに対して新しい名は、「望まれるもの」「夫を持つもの」(4節)、「尋ね求められる女」「捨てられることのない都」(12節)と呼ばれる、といわれています。この古い名と新しい名の対比は、神が御顔を背けていることと、神が御顔を向けることの中に根拠を持っています。これまで、人はシオンについて神によった捨てられた都(女)と呼び、したがってその土地は荒廃し、あるいは孤独になった、ということができました。つまり、その土地が荒廃している様は、神から見捨てられている証拠と見なされていました。

しかし今や、人は、シオンを「わたしの喜び」と呼ぶようになります。したがって、エルサレムの再建において、その名誉回復と喜びの回復とがともになされる一体のこととして語られています。それこそ神に見捨てられていないことの証拠となるからです。

4,5節において、神とエルサレムの関係は夫(花婿)と花嫁の関係で語られています。荒廃した土地は、夫に捨てられた、あるいは夫を持たない不幸な女のように語られていますが、再建されたエルサレム、その土地は夫を得るもの、花婿に喜ばれる花嫁として語られています。

第三イザヤは、これをイザヤ書44章28節の第二イザヤにおける「エルサレムには、再建される、神殿には基が置かれる」と言う預言の成就として語っています。それはまた、イザヤ書46章10節「わたしは初めから既に、先のことを告げ、まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。わたしの計画は必ず成り、わたしは望むことをすべて実行する。」という預言の成就としても語られています。

第三イザヤの決して黙さないという決意は、エルサレムの城壁に立つ見張りの役目の者にも求めています。その喜びの約束が成就するよう、エルサレムの城壁に見張りを置き、その者に昼も夜も決して黙さず語るように彼は促しています(6節)。その見張りは、「主に思い起こしていただく役目の者」で、彼は預言者によって、「決して黙してはならない、また、主の沈黙を招いてはならない。」と命ぜられています。彼はいつまでその務めを果たさねばならないかといえば、

主が再建に取りかかり
エルサレムを全地の栄誉としてくださるまでは。(7節)

といわれています。この見張りは、イザヤ書40章9‐11節の見張りの務めと一致するものです。

高い山に登れ
良い知らせをシオンに伝える者よ。
力を振るって声をあげよ
良い知らせをエルサレムに伝える者よ。
声をあげよ、恐れるな
ユダの町々に告げよ。

と第二イザヤは語りました。預言者も、見張り人も、ひたすら主の約束を信じ、その救い、良い知らせ(福音)を告知するつとめを持っています。その業は、「主に思い起こしていただく役目であり、主の沈黙」を招かないためになされるものです。「主が再建に取りかかり、エルサレムを全地の栄誉としてくださるまで」続けねばならない勤めを与えられています。教会の牧師の働きも、宣教のわざも、その本質において同じつとめを担わされています。

10-12節は、イザヤ書40章3節、52章11-12節の成就として語られています。52章11-12節は、第二イザヤの最期の約束のことばです。それは、

立ち去れ、立ち去れ、そこを出よ
汚れたものに触れるな。その中から出て、身を清めよ
主の祭具を担う者よ。
しかし、急いで出る必要はない
逃げ去ることもない。
あなたたちの先を進むのは主であり
しんがりを守るのもイスラエルの神だから。

という出発への呼びかけでした。62章11-12節は第三イザヤの最後の約束の言葉です。第二イザヤにおいては、捕囚の民に向かって、主のために荒野に道を備え、通せといわれていましたが、ここでは、捕囚から解放され現在イスラエルに住んでいるものに向かって、まだ待望の中にある捕囚民に道を開くべく、エルサレムの門を通って出発するよう呼びかけられています。また、道を開き、石を取り除くということは、ここでは比喩的にいわれていて、多くのイスラエル人が再びエルサレムに帰還するのを妨げる障害物を除去することを意味しています。「諸国民の民に向かって旗を上げる」ことは、遠方から故国にいたる道標とすることを意味します。

この喜びの知らせは「主は地の果てにまで布告される」と語られています。福音は、地の果てまで告げられねばならないと語られています。「主は」と主が主語になっていますので、福音宣教は主の意思として行われます。しかし「あなたの救いが進んでくる」とわたしたちひとりびとりに訪れる救いとして語られています。主の勝ち得られた実りとして御許に従うものとして集められることが語られています。エルサレムのこの喜びは、新約の光に照らせば、キリストの花嫁とされた教会であり、その一員とされている私たちの喜びです。それは捨てられることのない都として、そのひとびとりの存在を掌中の玉のように、主の愛を受けることが、

あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり
あなたの神の御手の中で王冠となる。(3節)

という言葉で表わされています。神の恵みとしての救い、神がそのように喜んでくださる救いがここに語られています。それはイエス・キリストにあって私たちに与えられている救いの恵みでもあります。

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