イザヤ書講解

63.イザヤ書57章14-19節『へりくだる者の祝福』

この箇所は、60-62章とともに第三イザヤの真正の救済預言であるということに関し、注解者の間で意見の一致が見られます。第三イザヤの活動は、捕囚から解放された後さほど経っていないわずか数年の比較的短い期間(前530年頃)であったといわれています(ヴェスターマン)。それは神殿再建がまだなされない時期で、実際に神殿再建作業が再開されるのは、前520年の末頃(ハガイ書1章12-14節)です。そして新しく再建された第二神殿が奉献されるのは前515年です。だが、ハガイとゼカリヤが告げたような喜ばしいことへ向かっての根本的な変化は起こりませんでした。神殿再建後の状況が如何に困難で無秩序であったかを、預言者マラキは伝えています。

この第三イザヤの救済の言葉は、捕囚からの帰還後にユダの地において発せられています。第二イザヤの使信から期待されたすべてを変化させる力強い救いへの転換がもたらされず、帰還者は貧しく、困窮の中にありました。希望に燃えて帰ってきた帰還者には失望落胆の思いがありました。第三イザヤはそのような人々に向かって、それでもなを第二イザヤが語っていた希望の使信から、主が開かれる未来に目を向けるよう人々を励ます使命を強く自覚してこれらの預言を語っています。

第三イザヤは、第二イザヤ同様、主の言葉によって民に慰めを語ります。14節の「盛り上げよ、土を盛り上げて道を備えよ。」という言葉は、40章3節の 「主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」という第二イザヤの言葉と関連して述べられています。

しかし、「道を備えよ」という意味は、第二イザヤにおいては、文字通り、捕囚からの解放を意味し、そのために主の救いの業が行われるために、主のために道を備えよという意味でしたが、ここでは、捕囚からの解放はすでに過去のものとなり、帰還も一応実現していましたので、停滞する祖国の再興と神殿の再建へ向けての「道備え」が課題として預言者と民の前に横たわっていました。「土を盛り上げる」という自覚的なその取り組みと、再建を妨げている「つまずきとなる物を除く」ことが大きな課題としてありました。それは、マルコ福音書1章3節に言われているのと同様、象徴的に精神的・信仰的な意味で、救いを挫折させ、障碍となるものを除去せよと言われています。預言者は救いにとって躓きとなる罪のことを言っているのか(エゼキエル7:19,14:4,7,18:30,44:12)、あるいは神ご自身によって置かれるもののことをいっているのか(イザヤ8:14、エレミヤ6:21、エゼキエル3:20)、はそれほど明瞭ではありません。前者の意味で取れば、その「つまずき」とは、17節の「貪欲」の罪のことを指している可能性があります。後者の意味で取れば、16節の罪に向けられた神の怒りのことが言われている可能性があります。

いずれにせよ、それらを「除け」といわれているとするならば、それらを取り除けないままでいる帰還民の現実、帰還後のイスラエルの現実に対して語られていることになります。神の怒りによって裁かれて衰えているか(16節)、神に背いて己が道を行ったなれの果てであるか(17節)、その現実に違いがあっても、その現実を前にして、人は打ち砕かれて、悔い改め、正しい道に立ち帰っていけるかというと、必ずしも誰もがそのようにできるわけではありません。ただそのような悲惨な現実をうらみ、つぶやくだけで時を過ごしている、そのようにしてしか事態に対処できない現実がそこにあったのかもしれません。それを一言で罪深いといって切って捨てるのは簡単です。

しかし、ここにその現実に対して心を砕いて深く思いやることのできる神を預言者は指し示します。預言者が指し示す神は、「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方」(15節)です。彼の神観は、アモツの子イザヤと同じ(6章1-3節)、どこまでも高く、聖にして、偉大な超越した神です。しかしその高く、聖なる、偉大な神が、身を低くし、

へりくだる霊の人と共にあり
へりくだる霊の人に命を得させ
打ち砕かれた心の人に命を得させる。(15節後半)

この事実のうちに希望と慰めがあります。そのつまずきの原因がどうであれ、神の前にへりくだり、打ち砕かれた心で神に向かおうとする「霊の人」神は共におられる。神はいつもその人の側にいて共におられる、ここに大きな希望があり、慰めがあります。そして、この神観は、新約聖書の十字架の低きに下る神理解へとつながるものです。

イスラエルが神の御心に目を留めず、繰り返し罪を犯し、神を拒む生き方のなれの果てが、神殿の崩壊、国の滅亡、捕囚という現実として彼らの前に存在しました。そして、それは、神の審きとしての面がありましたが(16節)、そのような状態に放置することが主の御心でもないことが、「わたしは、とこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすものでもない。霊がわたしの前で弱り果てることがないように、わたしの造った命ある者が。」(16節)という言葉に表されています。

明らかにこの言葉は、54章7-8節の第二イザヤの次の言葉を取り上げて述べられています。

わずかの間、わたしはあなたを捨てたが
深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。
ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが
とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと
あなたを贖う主は言われる。

神の怒りは、罪を犯し、己が腹の思いに従って生きるイスラエルの前から「姿を隠す」(57章17節、54章8節)というかたちで表されます。神は苦しむ者、嘆く者に隠されて、その者には神の顔(存在)が見えない、神の善意と慈しみが、その者に隠されていて見えなくなっている、そこにさらに深い嘆きの原因があります。

しかし神はいつまでも怒りを示し続け、姿を隠されるのではありません。イスラエルに対して実に慰めに満ちた言葉、神の無限の愛を示す言葉が18節に次のように示されています。

わたしは彼の道を見た。
わたしは彼をいやし、休ませ
慰めをもって彼を回復させよう。
民のうちの嘆く人々のために

主はずっと彼らの苦しんでいる現実を見ておられた、その道を見たといわれます。ただ見たというのでありません。神ご自身が心を痛めて彼らを見ておられたのです。そこには、相変わらず打ち砕かれて悔いるということもせずにいたものもいました。しかし神は、そういう存在も含めて、心を痛め、ご自分の民の一人一人の歩む「道」見たというのです。

そして、「わたしは彼をいやし、休ませ、慰めをもって彼を回復させよう。民のうちの嘆く人々のために」と主は言われるのです。

第二イザヤは、「嘆く」人々に、神の慰めを捕囚からの帰還として語りました。第三イザヤは、いま帰還したが真の安らぎをまだ一度も実感したことのない帰還民にも、まだ帰還を許されないで捕囚の地に留まっている人々、その一人びとりにも向かって、神の癒しと、休息と、慰めを語ります。

ここで彼が語る「平和」(シャローム)とは、救済の出来事ではなく、救われていることを表します。それは神の祝福に満たされた個人と共同体の調和のうちに見出される自由で、なにものにも妨げられない霊的な豊かな成長をあらわします。

ここでいわれる「遠くにいる者」とは、いまなおバビロンで捕囚民としている人々を指します。「近くにいる者」とは、エルサレムに帰ってきた民を指しています。この慰め、神の癒しはそのいずれのものにも与えられると語られています。その言葉を聞くものの中には、家族や知人の中で、そういう現実に生きねばならない事情のもとにあった人もいたでしょう。また、いまだ復興のならないエルサレムの現実を聞き、祖国への帰還を断念したままの「遠くにいる者」に帰還を促すメッセージとしての意味がこの言葉にあります。主の救いに預かるためには、確かに「へりくだる」こと「打ち砕かれた心」を持つことが必要ですが、その心をいやすことができるのは主のみです。「わたしはいやす」といわれる主の下に立ち帰るように、苦難にあえいで生きている「遠くにいる者」にも「近くにいる者」にも、この言葉は向けて語られています。

第二イザヤはが慰めを「わたしの民」(40章1節)に向かって語りました。第三イザヤは、同じく「わたしの民」(57章14節)に向けて語ってはいますが、その言葉は「悲しんでいる者の慰め」に向けられています。その使信はどこまでも民全体に向けられながら、直ちに民全体に向けられてはいません。それは「民のうちの嘆く人々のために」語られる個別的な慰めに留まらざるを得ない現実がそこにありました。しかしこれは個人として、孤独な苦しみ、戦いの中で希望をもてない者に、大きな慰めと希望を与える言葉となりえます。歴史の中で名さえ残さない孤独な「彼を癒す」と主は言われる、そうすることによって主は彼の存在を覚えられるという二重の慰めがここで語られています。

旧約聖書講解