イザヤ書講解

53.イザヤ書51章17-52章3節『目覚めよ、目覚めよ』

第二イザヤは、「慰めよ、わたしの民を慰めよ」という主の慰めを告げる預言者として召しを受けました。彼の究極の使命は、「エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけ」、苦役からの解放の喜びを告げることにありました(40章1-2節)。

どちらかというとこれまでの第二イザヤのメッセージは、捕囚の民と苦しみの共感から、捕囚の民に対して、主にある慰めと希望を語ることに重点が置かれていたように見えます。けれども、51章からは、その召命の日に与えられた使命に立った、主の慰めが語られています。

9節の「奮い立て、奮い立て」という言葉と関連して、17節において、「目覚めよ、目覚めよ/立ち上がれ」とエルサレムに向けて語られています。17節3行目から20節にかけて、エルサレムの嘆きが取り上げられています。ここに取り上げられているエルサレムの嘆きは、哀歌において歌われている嘆きの内容とよく似ています。

彼女の産んだ子らは、だれも導き手とならず
育てた子らは、だれも彼女の手を取って支えない。(18節)

どの街角にもあなたの子らが力尽きて伏している
網にかかったかもしかのように。
主の憤り、あなたの神のとがめに満たされて。(20節)

このように述べられているエルサレムの経験した惨状は、哀歌2章20-22節では次のように歌われています。

主よ、目を留めてよく見てください。
これほど懲らしめられた者がありましょうか。
女がその胎の実を
育てた子を食い物にしているのです。
祭司や預言者が
主の聖所で殺されているのです。
街では老人も子供も地に倒れ伏し
おとめも若者も剣にかかって死にました。
あなたは、ついに怒り
殺し、屠って容赦されませんでした。
祭りの日のように声をあげて脅かす者らを呼び
わたしを包囲させられました。
主が怒りを発したこの日に
逃げのびた者も生き残った者もなく
わたしが養い育てた子らは
ことごとく敵に滅ぼされてしまいました。

しかし今や、この民族の嘆きの言葉は、イスラエルに向けられた神の言葉として語られています。そうすることによって、この嘆きの意味が変えられています。

第二イザヤは、民の嘆きの言葉をイスラエルへの慰めの言葉に変えています。つまり、ここで嘆かれていることはあなたのことなのだ。すべてはあなたがその嘆きで嘆く通りなのだ。主であるわたしはその嘆きを聞いており、そのことを確認しています。わたしはあなたの嘆きをすべて知っている。あなたの置かれている現状はそれほど厳しいものである、と主が認識されたことがここに明らかにされているのです。

苦しみ悲しみの中にある人は、その苦しみの声を聞いてくれる人を見出したとき、その苦しみを克服する力を得るとよく言われます。苦しみを共感し聞いてくれる人がいると、自分は孤独ではないと確信できますし、それを理解し、慰め励ましてくれる人がいることを知って、人は大いに勇気づけられます。ましてや、その苦しみを自らのこととして受け止めてくださる神がおられるということを知るとき、その苦しみの意味が根本的に変わります。その苦しみの内容は、もはやわたし個人の問題ではなく、神がご自身のこととして、その苦しみに向き合ってくださるという希望がそこから見えてくるからです。

今、このイスラエルの叫びを聞く神は、かつて、「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。」(出エジプト記3:9)といって、彼らをその苦しみの地から救い出された主です。

第二イザヤは、21節において、「それゆえ、これを聞くがよい」という言葉で、神の声に聞くよう促しています。その語りかけを聞くイスラエルは、「酒によらずに酔い、苦しむ者よ」と呼びかけられています。

「酒に酔う」といえば、心地よい気分を連想するかもしれませんが、酒に酔うのは、必ずしもそのような場合ばかりではありません。時には酔って気分悪くなり、激しい嘔吐を伴う悪酔いもあります。ここでイメージされているのは、そのような悪酔いのときです。しかも酒を飲んでもいないのに、まるで悪酔いしたように、「苦しむ」体験をした彼らの苦しみを見ています。その彼らに、第二イザヤは、「あなたの主なる神、御自分の民の訴えを取り上げられる主」を指し示しつつ、しかしその苦しみは、主が「わたしの憤りの大杯」(22節)といわれる、主の審判としてなされた事実を指摘しています。それはまともに立って歩くことができないほどの、「よろめかす杯」として与えられた苦しみでありました。しかし、「再び飲むことはない」ように取り去られるといわれています。

エルサレムの陥落とバビロン捕囚は、「あなたを責める者の手に」主が渡し、その支配のもとにおいた結果として起こったという事実をここでもう一度明らかにしています。その攻撃と支配の仕打ちは、倒れ伏す者の背中を、まるで地面や、通りのようにして踏み越えていったが、主は彼らのなすがままにされたというのです。彼らの訴えを今になって聞くぐらいなら、そんなことをせずに済ませればよいではないか、とこれを読む人は考えるかもしれません。しかし、そのようにならないようにするために預言者を通して語られた主のことばを退け続けた彼らに対してなされた、主の最後的な審判の方法であったという重い事実を看過しては、それでもここで民の訴えを取り上げようとされる、主の憐れみが見えなくなります。

審きは、どこまでも主の声を聞かないものに示されたものです。そうであるなら、その審きの時が終わり、主による回復への転換がなされない限りイスラエルには救いはないということになります。だから、この民の嘆きを主が聞かれるということは、主はこれを民の悔い改めとして聞かれたということが意味されているのではないでしょうか。それが本当に心底からのものであったかどうかという点については、ここでは問われていません。むしろ、第二イザヤの召命のときに聞いた40章2節の次の主の言葉がその悔い改めに先行しています。

苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。
罪のすべてに倍する報いを
主の御手から受けた、と。

この嘆きを取り上げるのは、彼らの悔い改めを聞いてというよりも、単なる嘆きでしかなかった彼らの叫びを、悔い改めとして聞く、主の恩恵としての救いの面が強調されているように思えます。

「目覚めよ、目覚めよ/立ち上がれ」(51章17節)と呼びかけられたエルサレムは、もう一度、「奮い立て、奮い立て/力をまとえ」(52章1節)と呼びかけられています。シオン(エルサレム)は、今や、「輝く衣をまとえ」といわれています。美しく着飾るよう促されているのです。それは祝祭のために用意すべきこととして語られています。「輝く衣をまとう」ことは、「首の縄目を解く」ことと対にして語られています。そうすることによって、単に苦役からの解放ということ以上の恵みが明らかにされています。それはまさに、「罪のすべてに倍する報い」(40章2節)として与えられる名誉と光栄ある地位への回復を意味しています。まさにこれが主の恵みとしてなされることが、52章3節の次の言葉によって決定的に明らかにされています。

「ただ同然で売られたあなたたちは
銀によらずに買い戻される」と。

この言葉は、55章2-3節で語られている恵みの先取りとして語られています。

わたしに聞き従えば
良いものを食べることができる。
あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。
耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。
聞き従って、魂に命を得よ。

本当に心底悔い改めを示し得ないこの民の嘆きを聞き、解放の恵みを告げる神は、このような呼びかけを最後になさいます。神は単に、目覚めよ、奮い立て、といわれるのではなく、彼らの苦しみを知るものとして、なぜ彼らがそうなったかも示しつつ、叫びを聞かれる方として、その心と向かい合っておられるのです。この主なる神(ヤハウエ)は、「わたしの民よ、心してわたしに聞け」(51章4節)という言葉と共に、「わたしの恵みの業はとこしえに続き/わたしの救いは代々に永らえる。」(51章8節)という約束を同時に与えてくださる方であります。そのように先行する主の恵み、赦しの下にわたしたちの真の悔い改めへの信仰が導かれます。

「目覚めよ」とは、そのような恵みを示される神に、目を開いてみよ、という呼びかけであります。

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