イザヤ書講解

36.イザヤ書42章10-17節『新しい賛美の歌』

この箇所は、「新しい歌を主に向かって歌え。」という呼びかけの言葉ではじまっていますが、同じ言葉で始まる賛美の歌は、詩編96篇と98篇にもあります。特に96篇は、イザヤ書42章10節-13節と内容的に非常によく似ています。これらの詩篇の言葉は、礼拝の招きの言葉としてよく用いられています。そして、世界の基を造られた創造者なる神が、救い主として地に来られ、苦しむ者に、苦難から解放し、大いなる喜びへ招き、救いを実現するご自身に対し、新しい歌を持って賛美せよ、との呼びかけがなされています。

第二イザヤは、この特別な歌の形式によって、捕囚の中で苦しんでいる同胞の民に向かって、神の出来事に、新しい歌を歌って歓声を上げよ、と呼びかけているのであります。その神の出来事とは、今まさに彼らの間に実現しようとしているエルサレムへの帰還であります。

しかし、この出来事は、神の側では既に起こるべきものとして定められた事実となっています。だから、これらのほめたたえの歌は、その知らせを聞く者が、それに対する応答として、ほめたたえの歌において信仰の「然り」を言い表すために歌われるべきことを、預言者は告げています。この場合、9節において語られた、「新しいことをわたしは告げよう。」といったことと対応して歌いだされるべきものとして要請されています。

イスラエルと神との関係において、終始決定的な役割を果たしているのは、「対話的なもの」です。神の行動には、イスラエルは神賛美の中で喜びの応答をすることが絶対欠かせないこととして要請されています。

使徒パウロの、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)という言葉も、イスラエルの信仰の中で語られています。だから、神の行動に、心から神を賛美する喜びの応答がなされないなら、神の行動は侮られたことになります。

預言者は、ここで抑圧された者、打ちのめされた者、絶望している者に向かって、現状ではまだ何も見えず、何も感じ取ることのできない神の行為を賛美させるために呼び出しています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ11:1)。しかし、それは神において既定となっている終末的な救いの出来事として語られ、明らかにされています。その神の行動を賛美の中で喜びの応答をする、そこに真実な信仰の姿があります。

「地の果てから」と呼びかけられているのは、捕囚の地にあるもののことが暗示されていると考えることもできますが、ここではもっと広い意味で、「あらゆる遠いところから」、文字通り「地の果てまで」にいたるすべての人が神を賛美し、苦難から喜びへと転換する神の救いに与るよう呼びかけられていると理解すべきでしょう。なぜなら、創造者なる神が救いの神としてこの出来事を行われるからであります。

だからそのスケールにふさわしく、このほめ歌の呼びかけは、この告知を聞く「地の果てまで」のすべての人間だけではなく、すべての被造物、被造世界へ向けてなされています。海と陸(島々)、「荒れ野」とオアシスにある「町々」、山地に住む住民に対してなされています。これらの言葉において、預言者は、天と地の創造者であり、すべての出来事の主である神を指し示し、この方において起こる出来事に注目するよう聞く者の注意を喚起しているのであります。

第二イザヤにおいて、神が創造者、歴史の主であることは、きわめて現実的な意味を持っています。神がご自分の民に対してなされる究極的な救いの行為は、全世界と全被造物の目の前で起こり、それは神を信じる者たちの応答だけでなく、世界と被造物の応答を神は期待しておられます。神がそのように期待しておられるということはまた、神の救いは、そのような存在にまで向けられているということを示しています。
13節には古い神顕現の表現が用いられています。この言葉は、主が抑圧された民を助けるために出てくるときに用いられる言葉であります。この古い言葉を用いて語ることによって、預言者は、昔、イスラエルに共におられ、彼らのところに来られた同じ神が、今、最悪の、希望なき状況にある民にも、かつてなされたのと変わらない介入と救いを実現されるために圧倒的な力を帯びて行為されるということを明らかにしようとしているのであります。40章10節において序曲として述べられていたことが、今、主の勝利として実現することが述べられています。

14節-17節は、41章17節-20節の「救済の告知」と関連して語られています。しかし、41章18節では、神の介入は、荒野を実り豊かな園に変えることだけを語っていましたが、42章15節では、それとは反対のことが次のように起こると語られています。

詩編107篇33節-37節では、神の行動のその両面を語り、それが人間を高くすることと低くすることと対応することが語られています。第二イザヤは、この二つの告知において(41章17節-20節と42章14節-17節)、変化をもたらす神の行動は、ご自分の民のために祖国への帰還の道を開く働きをすることが実に慰めに満ちた言葉で語られています。

目の見えない状態や闇は、イザヤ書9章1節同様、捕囚の民の現状を表しています。今、彼らの目は見えず、彼らの前にはただ闇しかありません。その原因は何よりも、彼ら自身がもはや未来を信ぜず、自分たちは神に見捨てられたと思っていることにありました。

それゆえ16節の最後では、「わたしはこれらのことを成就させ/見捨てることはない。」と告げて、イスラエルを見捨てなかった神の継続する働きが強調されています。

神は、これまでイスラエルを虐げた者には、「わたしは山も丘も廃虚とし、草をすべて枯らす。大河を島に変え、湖を干す。」(42章15節)という裁きをもって応えられますが、イスラエルに向かっては、次のように語られていました(41章17節-19節)。

イスラエルの神であるわたしは彼らを見捨てない。
わたしは不毛の高原に大河を開き
谷あいの野に泉を湧き出させる。
荒れ野を湖とし
乾いた地を水の源とする。
荒れ野に杉やアカシヤを
ミルトスやオリーブの木を植え
荒れ地に糸杉、樅、つげの木を共に茂らせる。

イスラエルの聖なる神がなされる創造の業としてそれを成し遂げると語られていました。今その神が、神の救いを見ようとしなかった信仰を見失っていた人の手を取って、今まで歩んだことのない、彼らの知ることのなかった道へ導くといわれます。

そして、「行く手の闇を光に変え、曲がった道をまっすぐにする」働きを持って、彼らの曲がりくねった心をも闇から希望ある光輝く未来に向けさせ、彼らの祖国への帰還の道をまっすぐにして、障害になるすべてのものを取り除いて、用意されるとのすばらしい慰めが語られています。

「わたしは決して声を立てず/黙して、自分を抑えてきた。」(14節)といって、神に希望を持って目を向けようとしない民へ、神ご自身がどんなにその告発の言葉を抑制して忍耐してこられたかを思い起こして読むとき、その民を思い続ける神の忍耐の大きさを、改めて知ることができます。

だから、預言者はただ「新しい歌を主に向かって歌え。」と告げているのではありません。このようにイスラエルを愛し、その救いの業をすでになすことを決定されている神に向かって目を開き、神を仰ぎ見て、その神を喜べと命じているのであります。これはまた、イエス・キリストにおいて確かな終末の救いを与えられているわたしたちにも呼びかけられている喜びへの招きの言葉でもあります(へブライ13:1-16、エフェソ2:11-22)。

旧約聖書講解