イザヤ書講解

34.イザヤ42章1-4節『傷ついた葦を折ることなく』

ここには弱い人々を励ます神の慰めが語られています。主なる神は、世の中にあって人々から迫害されている人、差別や偏見で苦しめられている人、また、病や試練のため、傷つき倒れている人に目を注ぎ、その人たちにふさわしい助け手を送られるお方です。ここにはその様な神の慰めが語られているのであります。

3節に「傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯芯を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする」とありますが、水辺にある傷ついた葦を折れば本当に枯れてしまいます。その様に傷つき倒れている人を扱えば死んでしまいます。弱り果てている人を死ぬことのないように助け、彼の命を確かにする救いを与える慰めがここに語られているのであります。

また、神との正しい関係を失っているゆえに、真の信仰が萎え、失われていき、神から遠ざかり、滅びの道を歩むことがあります。信仰の火が消えてしまうと、わたしたちには神から与えられる命の管を失うことになりかねません。

「暗くなってゆく灯芯を消すことなく」というのは、まさしく主なる神への、わたしたちの信仰の火のことであります。しかし、わたしたちの信仰の火が本当に消えてしまったら、誰がどうやって点けることができるのでしょう。点けるものがないとすると大変です。

神が消え入りそうな信仰の火を保ち、消さずに保っていてくださるから、私たちの信仰は失われず保たれます。この御言葉にはその約束が語られています。では、神はそれをどのようにして保ってくださるのでしょうか。

3節の御言葉は、40章6-8節を背景にして語られています。信仰の火を消すことなく保つのは、人を永遠の命へと保つ主なる神の言葉であります。「神の言葉だけがとこしえに立ち」、神の言葉が語られ、聞かれるところだけに、信仰の火が勢いよく燃え、その灯芯は暗くなることがありません。「暗くなってゆく灯芯を消すことなく」保つのは、神の恵みの力です。その恵みの力は、神の言葉によって与えられます。

そして、神はその恵みの言葉をわたしたちにもたらすために、使者を遣わしてくださいます。その使者のことを、1節において「わたしの僕」と呼ばれています。「見よ、わたしの僕」といっておられます。主は僕を注目するよう人々に呼びかけています。主は、この僕のことを「わたしが支える者」といっておられます。主なる神は支える者として、ご自分の力を与えることによって支えられるのであります。神に遣わされるこの人物は、神の救いのために働く僕であります。彼自身は僕に過ぎません。そして、彼の救いのための働きは、神が支える方として彼に支えの手を伸ばしておられるので、彼はその委ねられた任務をまっとうできるということが語られているのではあります。

そして、1節の2行目に、彼が僕とされた理由が述べられています。「わたしが選び、喜び迎える者を」と述べられています。この人物を、神は多くの人の中から選んだというのです。彼が選ばれた理由は、彼が人より優れた才能や資質があったからでしょうか。そんなことは一つも語られていません。ただ彼を神が「喜び迎えた」ということだけが語られています。彼が僕として選ばれ、任命された理由は、神の側にありました。神が彼を気に入られたということです。イスラエルが主の民として選ばれたときもそうでした。申命記7章8節に、「ただ、あなたに対する主の愛のゆえに」といわれています。
そして、主が僕を一方的に気に入り愛して選ばれる、ここに僕がもたらす主の救いの性質を示す「しるし」が隠されています。救いは神の恵みの選びによるということが、僕の選びを通して主は明らかにしておられるのであります。

主は彼の上にご自分の霊を注ぎ、その任務を遂行するに必要かつ十分な啓示の言葉を与えておられます。主なる神の支える者としての支えとは、霊の力による啓示を通して与えられます。

僕はその様にしてはじめて、「国々の裁きを導き出す」任務を全うするものとなります。1-4節の中に「裁き」という語が3回出てきます。いずれも、ミシュパートというヘブル語が元の語です。新共同訳聖書はこの語を「裁き」と訳していますが、この場合、「公義」と訳す方が、真意が良く伝わると思います。僕がミシュパートをもたらすのであります。4節では、僕が「この地に裁きを置く」といわれていますが、「置く」というのは、「打ち立てる」という意味です。つまり、僕の任務は、ミシュパートの効力を地上で発揮することにあります。

古代近東世界の王権においては、新しい王が任命されると、その王は自分が作った法を制定し、それを大声を上げて宣言するという方法がよく行われていたといわれますが、この僕はそのような王的な任務を担う者として神によって任命されたのであります。

しかし、彼のその任務の果たし方は、地上の王の姿と異なっていました。彼は地上の王のように大声を上げて叫びません。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」といわれています。彼がその王権を打ち立てる方法は、地上の王たちの方法と全く異なります。地上の王は裁くその行為によって、折られた者、消えつつある者を、死なねばならない者として過酷に扱うことをしばしば行いました。しかし、この僕の裁きはそれとは全く異なっていました。

「傷ついた葦を折ることなく/暗くなっていく灯芯を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする」という内容であります。先ほども触れましたように、これは40章6-8節と重ねあわせて読むべき所であります。この僕が預言者として語る言葉が萎える者に命をもたらし、信仰を失いかけている者に信仰の火を再び強く燃え立たせる言葉を与えるというのであります。

そして4節において、この僕自身には、その業を成し遂げるまで、消えることも、折ることもないであろうとの約束が与えられています。この僕は傷ついた人々が倒れないようにし、命をもたらす使者としての任務を持ち、暗くなって消えそうな信仰の火を再び燃えたたせ、永遠の命である神の言葉を取り次ぐ任務を持っていました。

この僕自身が、暗く、傷つき果てる重い苦難を、その任務ゆえに引き受けねばならないことが暗示されています。しかし、今しばらくそのことから猶予されていることがここに語られています。彼は、「この地に裁きを置くときまでは」そのことから猶予されていました。しかし、主の御旨は、53章によれば、彼に人々の病を負わすこと、人々を救うために彼を打つことにありました。彼の打ち傷によって人々を癒すことにありました。人々のすべての罪を彼に背負わせ、多くの人々が正しいとされるために、その罪を背負い、その死のゆえに多くの人々に救いがもたらされる、ということが神の御旨でありました。

ここに記されているのは、主によって立てられた受難の道を歩むひとりの僕、無名の預言者の歩む姿であります。彼は受難の僕としての道を歩むことによって、人々にまことの神を証しし、主の公義を指し示しました。

そして、「島々は彼の教えを待ち望む」といわれています。彼が打ち立てるミシュパートは、「この地」を救いへと建て上げるだけでありません。ミシュパートは、「島々」にまで及びます。それゆえ、諸国民は僕がもたらす神の判決を待ち望み、期待を持ってミシュパートを受けるためにやってきます。そして、彼ら諸国民の神々の神性が無効とされます。ただ主なるヤーウェだけが神とされます。僕は自らの受難を通して告げるミシュパートによって、諸国民にこの判決を告げ、救いをもたらす者となるのであります。

この受難の僕は一人の無名の預言者でありました。しかし、新約聖書は、この受難の僕を「メシア」を指し示すものとして理解し、イエス・キリストにおいてこの預言が成就したことを告げています。この受難の僕は、自分の受難を通してメシアを指し示し、メシアの素晴らしい約束を語りました。彼が諸国民に伝え、諸国民が彼の下で聞く素晴らしい救いは、51章4-8節とりわけ、4-5節に語られています。

主が僕を通して告げる言葉に望みを置く者には、主の救いがとこしえに続き、主の恵みは絶えることがありません。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯芯を消すことなく、成し遂げる素晴らしい主の救いは、受難の僕となられた神の御子イエス・キリストにおいて完全に実現します。この僕は自らの受難の姿において、来るべき救い主を指し示しました。そして、神はこの僕を支え、彼の受難の姿を含めて、彼を僕として選び、迎え入れることによって、彼の公義のメッセージを受け入れる全ての人に、救いを約束されました。その救いは、傷ついた葦を折ることのない救いであります。彼が指し示したキリストは傷ついた者を救うために自ら苦しまれ、彼のために救いとなられたからです。

キリストの十字架はわたしたちの救いのために背負われたのであります。キリストはわたしたちの救いのために、その苦しみを喜んで受けてくださったのであります。そして、それがわたしたちに救いをもたらす主の公義として与えられているのであります。この教えを喜んで待ち望む者すべてに、主の公義、救いは与えられるのであります。この僕の歌はその救いを語っているのであります。

旧約聖書講解