イザヤ書講解

31.イザヤ書40章12-31節 『創造の神は、贖いの神』

前節までに引き続き、この箇所はバビロン捕囚を経験している民に対して語られた解放の福音の言葉であります。預言者は捕囚の民の苦しみ、彼らの心の片隅にずっと引っかかっていた疑問を、誰よりも知っていました。遠く祖国を離れ、異郷の地で生きていたイスラエルの民は、主への信頼、主の救いが見えなくなっていました。それ故、27節において次のような呟きの言葉を口にしました。

わたしの道は主に隠されている、と
わたしの裁きは神に忘れられた、と

その思いは預言者自身にもあったかもしれません。預言者は彼らと苦しみを共にして生きていましたので、捕囚の民から超然とした感情を表すことができません。

しかし、預言者は、イスラエルの民が人間として、一つの民として、あらゆる力と可能性をはぎ取られた状態にあるにもかかわらず、今、解放されようとしていると語ることができました。この預言をした第二イザヤにその確信を与えたのは、創造信仰です。第二イザヤは、創造の中に神の救いが既に現れていることを信仰の目で見ることができたからです。そして、その神が、イスラエルを選び、エジプトの地で奴隷として苦しんでいるイスラエルを救う贖い主となられた、この二つの事実から、創造の神は、贖いの神として、第二の出エジプトを行なうことができる。世界を神の歴史支配として見る彼の信仰の目がありました。そこには、冷静なイスラエルに伝えられている「歴史伝承」「救済伝承」から学んだイザヤの中に生れた心から溢れ出す熱い信仰のパッション(熱情)があります。

世界を創造された神は、まさに混沌とした無秩序と深淵の世界に、霊を働かせ、言葉をもって「光あれ」(創世記1章3節)と呼び掛けることによって、世界に秩序を与えて、その御業を遂行されました。それはまさに世界にとって救いの出来事でありました。その創造の神が、今、捕囚の地で混沌と深淵の中で生きている民に対しても、同じ力と栄光を持って贖うことができる、と預言者は信じているのであります。

創造に際して、神の霊が水のうえを動き、神の言葉によって、「光あれ」と言って、世界に対する秩序づけと希望が与えられたように、神の霊がバビロンの捕囚の民に働きかけ、神の言葉の呼び掛けがなされるなら、混沌と無秩序の深淵の中で絶望している民は、身を起こして立ち上がることができると、預言者は確信していました。

しかし、預言者は、この言葉によって民を励ます前に、バビロニアに見られる偶像宗教と地上の権力の空しさを指摘することを忘れていません。
人は、真の神(ヤハウエ)に創造され、その主権のもとに支配されているのに、神の被造世界を自分の手で量るという誤りを犯しています。預言者は12節の問い掛けにおいて、それをするのは主ではないかという答えを期待しています。また、主の霊の働き、知識、正義を人間の力で見極めようとする試みの愚かさを気付かせようと、13、14節の問いかけを行っています。

その愚かな試みは、異教の民が行っていることで、18-20節で言われているような偶像を造る倒錯した宗教性への堕落に繋がったと述べています。人間の手で造られた神は、真の神でない故、語ることもできなければ、何の力ある業も行うことができません。神が世界を造られたのに、神の作品である被造物になぞらえて神を創造することは、真に倒錯した姿であります。

創造者なる神は、ご自分を最初から世界に啓示し、ご自分が神であることを、言葉と業とを持って啓示しておられました。それ故、預言者は21節のように問うています。

創造主である神と、神によって創造された人間との間には、どれほど大きな隔たりがあるのかを、22節において「主は地を覆う大空の上にある御座に着かれる」方であるが、「地に住むものは虫けらに等しい」と述べ、人の世を支配する地上権力により頼むことの空しさを語ります。創造者なる神の前には、どのような地上の君主といえども、蒔かれた種が地に根を張る前に、暴風によって藁のように拭き払われて散らされたり、枯れたりするように、主は君主たちを無に帰されると、預言者は告げるのであります。

今、イスラエルの民を捕囚として支配するバビロンの王がいかに強大な権力をもって支配をしていても、聖なる神、天の万象を創造した主なる神の主権と歴史支配の力の前には、全く取るに足りない小さなものでしかないことが語られています(26節)。

イスラエルの目は、余りにも、地上の悲惨な現実に向けられすぎていました。現実からの逃避は許されません。現実から目をそらしてはなりません。その歴史の現実の直中にあって働く創造者なる神の摂理の御手を仰ぎ見ることを、人は忘れてはならないのであります。

創造者なる神は、贖い主でもあることを知っている信仰は幸いであります。預言者は、その悲惨な現実の直中で、その信仰を回復しました。彼はその信仰を回復したとき、神の預言者として、同じ悲惨の中にある同胞の民を励ますことができました。

28節-31節の慰めに満ちた言葉は、預言者自身苦難の中で見出した信仰から生み出されたものであります。

人間は、この歴史の現実に疲れ果て、躓き倒れやすい存在であります。しかし、主(ヤハウエ)はとこしえの神であり、地の果てに及ぶすべてのものの造り主であるから、この現実の歴史を支配することができるし、現実に支配しておられるのであります。だから、主なる神には、「倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え、勢いを失っているもの者に大きな力を与える」ことが可能であります。現実の人間の不可能性の中で失望落胆して、神に期待することを忘れているものに向かって、預言者は「主に望みを置く人は新たな力を得る」と呼び掛けています。主を待ち望む者が得る新たな力とは、「鷲のように翼を張って上ることができ、走って弱ることなく、歩いても疲れない」素晴らしい力であります。それは、現実に人間が獲得することのできるものではありません。人間が他のものに与えることのできる力でもありません。それはただ「天の万象を創造した」主が保証し、恵みとして与えることのできる力であります。そして、そのような力に、この預言を聞いた時代の民は現実に与ったわけでありません。それは主を信じる者に約束されている希望として語られ、聞かれたに過ぎません。しかし、人間的に不可能の極み、絶望の淵に立つものに、主にある希望ある未来、救いとして語られたこの言葉は、大きな慰めを与える言葉として聞くことができたことでしょう。

第二イザヤは、「とこしえの神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主」を指し示し、この希望の言葉を告げているのであります。それは、出エジプトにおいて、水を分け、海を渡らせる奇跡をもってイスラエルを救われた神であります。いまその神がそれを超える救いを実現しようとして立ち上がって下さることをイザヤは告げているのであります。「とこしえにいます神/地の果てに及ぶすべてのものの造り主」は、今、贖いの主として、それをも凌ぐ圧倒的な素晴らしい恵み、救いを与えようとして立ち上がれたことをイザヤは告げているのであります。

創造者なる神は、死から命への贖いをする神でもあります。この信仰は、新約の主イエスの復活を指し示しています。創造の神は、「とこしえにいます神」として時間を超えて救いをもたらすことができるだけでなく、「地の果てに及ぶすべてのものの造り主」として、全地を支配しておられます。それ故、祖国を追われ、捕囚として遠くバビロンの地で苦しむ、イスラエルを贖い、救いへと導くことができる、と預言者第二イザヤは告げています。

創造の神は、今、「地の果てに及ぶすべてのものの造り主」として、その解放者を起こされる。ペルシャのキュロスがそれであります。主は、「わたしの望みを成就させる者」(イザヤ書44章28節)としてキュロスを立てたことを預言者は明らかにしています。28節の「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか」という問いは、出エジプトの出来事を想起させる言葉であります(イザヤ43章16節-20節)。出エジプトの奇跡を行われた神は、今それをはるかに凌ぐ救いを、「究めがたい英知」をもって与える方として立っておられます。この事実を信仰の目で見ることが大切であります。そして、この事実を見る信仰は、疲れを知らない幸いな希望を生きることができる。第二イザヤは、そのことを、今、生きているわたしたちにも語ってくれているのであります。

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