イザヤ書講解

29.イザヤ書40章1-5節『主のために荒野に道を通せ』

イザヤ書40章-55章は、無名の預言者によって書かれたと多くの学者が言っています。聖書学者が、その人物を第二イザヤと呼んでアモツの子イザヤと区別しています。40-55章の預言は、アモツの子イザヤの時代から約150年後の、紀元前6世紀の中頃の状況を背景にして語られています。

ユダ王国を苦しめたアッシリア帝国は、イザヤの時代から約100年後、紀元前612年にバビロニア帝国によって滅ぼされました。ユダ王国も、そのバビロンによってそれから10数年後に滅ぼされました。ユダ王国は、ヒゼキヤからマナセ、アモン、ヨシヤと代替わりを重ねつつ、かろうじて生きながらえてきましたが、ヨシヤの息子たちの代になって、バビロンのネブカドネザル王の三度に及ぶ侵略と捕囚(前597年、587年、582年)によって、完全に滅び去りました。

その滅亡は、主の言葉を退け、主の言葉を語る預言者を退け、背信の罪を重ねる民への審判の結果でありました。そうであるなら、その苦難からの解放への道は、それらの預言を思い起こし、主の言葉に立ち帰る以外にありません。その課題を担い、捕囚の民にその使信を新しく告げたのが第二イザヤです。第二イザヤは、救済預言者でしたが、自らの預言を審判預言者に基礎づけ、それを神の創造による第二の出エジプトとして語りました。

捕囚とされた人々はバビロンとケバル川のほとりの村々に植民させられました。バビロン各地の捕囚民は農業に従事しつつ、それぞれ小さなユダヤ人共同体を造り、土地の文化を吸収しつつも、抑圧と差別の中で自分たちの精神的・宗教的遺産を大事に守り続け、いつの日か必ず祖国に帰還することができるという希望を捨てずに生きていました。

詩篇137篇1-4節に、次のような捕囚民の嘆きが歌われています。

バビロンの流れのほとりに座り
シオンを思って、わたしたちは泣いた。
竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。
わたしたちを捕囚にした民が
歌をうたえと言うから
わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして
「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。
どうして歌うことができようか
主のための歌を、異教の地で。

捕囚の民に一つの希望が起こったのは、前562年にネブカドネザルが死んで、バビロン帝国の統一が乱れ、分裂が起こり始めた頃からです。バビロン帝国の滅亡は速やかでした。前550年、ペルシャの一小国の王であったキュロスはメディアを制圧し、四年後には、小アジアのリディアを征服し、前539年、キュロスはバビロンに入城し、征服しました。こうして史上初めての最大の帝国が誕生しました。

ペルシャ帝国キュロスの統治方法は、アッシリアのティグラテ・ピレセルやバビロンのネブカドネザルなどが取った征服による支配と異なり、属国の人々の宗教と国民感情を重視する政策を取り、その統治の最初から、エルサレムの宗教行事の執行を認め、捕囚の帰国を許可する方針を打ち出しました。こうしたキュロスの寛容政策を背景に、前537年には、その第一陣が祖国への帰還を果たしました(エズラ1:1-11)。

この預言を記した人物は、捕囚時代の末期、バビロンの地にあって、捕囚民とともにその苦難を体験した、無名の人物ではないかと言われています。

40章1-2節の使信は、以上の背景の下に語られたバビロン捕囚からの解放を告げる希望に満ちた預言の冒頭の部分です。バビロン捕囚は、度重なる悔い改めの勧告に耳を傾けず、神への背信の罪を繰り返すユダに対する神の審判の出来事である、と預言者は理解しています。そして、神によって定められた期間苦役を民は受けたが、今やその苦役の期間が満ちて、その罪が許された、と次のように宣言しています。

慰めよ、わたしの民を慰めよと
あなたたちの神は言われる。
エルサレムの心に語りかけ
彼女に呼びかけよ
苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。
罪のすべてに倍する報いを
主の御手から受けた、と。(1-2節)

ここに語られているのは、抑圧されている民に語られる解放の福音です。福音とは、聞くことに始まるとローマの信徒への手紙10章17節でパウロは述べていますが、それは既に成された神の出来事に耳を傾けることです。これから何かを引き起こすために、自分の力を振り絞って行動を起こすことではありません。それは、繰り返し語られる神の御声に耳を澄まして傾けることから始まります。その福音、神の御声とは、神の慰めです。「慰める」はヘブル語で「深く息を吸い込む」ことを意味します。神の慰めは、その場しのぎの気を紛らわすことでも、現状に目をつむってしまうことでもありません。聖書では「慰める」という動詞は、「助ける」(詩編86:17)、「贖う」(イザヤ51:11,12、52:9)「憂いの変わりに喜びを与える」(エレミヤ31:13)などと併行して用いられています。それは、<慰め>が現状肯定の言葉ではなく、現状の変革にかかわる用語であることを意味しています。

現状を変革する神の慰めの言葉は、「エルサレム心に語りかける」呼びかけであります。神の慰めの言葉は、「エルサレムの心に語られる」のです。主の言葉に背き罪を犯して、主に裁かれ、国を失い、希望を失って立ち上がれないでいる人々の心に向って、この言葉は語りかけられているのです。捕囚の民の心に滲みる慰めの言葉が語られるのです。預言者は、主から「わたしの民を慰めよ」と神から語るようにと促されています。

捕囚の民が直面したのは<神の沈黙>の問題でありました。国の滅亡は、神の無力を証するものと理解するものも多くいました。神の歴史支配が終わったのではないか。信仰は虚しい営みではないか、という虚無感の中で生きていました(49章14節)。彼らは皆、神の沈黙を胸深くにためて、荒れすさんだ虚無の中に生きていました。それはまさに「荒野」であり、砂漠でありました。

この預言を語る預言者は、かたくなに心を閉ざして荒野の世界に呻吟する捕囚の民とは異なり、ひとり孤高を保ち、世界と歴史に対する洞察を持ち、揺るがざる確固とした信仰と希望とを堅持した偉丈夫な人物ではありません。彼自身は、宣べ伝えることばも方策も何も持たぬ無力な人間でした。野の草のように砂漠の熱風の一息で枯れてしまうことを知っている無力な人間でした。しかし、ここにいるのは、現在の荒野の状態が神の激しい審判の息吹の結果であることを痛いほど身に滲みて知っている人間でありました。

彼は同時代の民とともに、深く荒廃する世界を分け合い、神の御手から受けるべき罪に対する苦役の刑期として、神の御前に認めざるを得ない現実のあることを知っていました。

福音とは、こうした者へ語られる神の慰めであります。そして、その慰めは、現状の根本的変革にかかわります。神の沈黙と虚無と荒野なる世界に生きて、罪の重荷に呻吟する民と預言者自身とに対し、神の新しい現実が伝えられます。それが福音であります。「わたしの民ではない」(ホセヤ1:9)といって、捨てられて捕囚を経験している民が、ここで再び「わたしの民」(1節)と呼ばれています。「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」と8節で語られ、枯れ果てていく世界を再創造する神の言葉の創造性こそ、福音の開始であり、これを聞くことこそ福音に生きる喜びであります。

そして、福音は大いなる転換を引き起こします。福音は虚無に苛(さいな)まれているものを立ち上がらせるだけでなく、これを聞いた者を福音の告知者として、他者に向かって福音を告知する働きへと召す働きをもしています。福音は変わらざる神の永遠の力によって、人間を変革し、世界を変革する働きを持つものであります。

この使信を受ける民は、荒れすさんだ虚無の中に生きていました。すさんだ心は「荒れ野」であり、「荒れ地」です。預言者は、「主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」(3節)と命じています。

私たちの心が荒れすさみ虚無になるのは、「主が来られる道」「神からの言葉が通る道」が閉ざされているからです。主の呼びかけ、主の通る道が備えられ、広く敷かれているのでなければ、心の中はいつまでも不毛の荒野でしかありません。罪の破れの中にある、という人間の現実がここに語られています。

主が「呼びかける声」に耳を傾け、今まで自分のためにしか生きていなかった者に、「主のために」、「わたしたちの神のために」、荒野に「道を備え」、荒地に「広い道を通せ」と預言者は民に向って語っています。言い換えれば、神の恵みの支配に委ねて、神の呼びかける御声に耳を傾けて聞く、神中心の生活を回復せよとの呼びかけであります。神中心、神の主権が改革派信仰のあり方として、これまでよく叫ばれてきましたが、わたしたちは本当にそのことを心から覚えて歩んできたのか、改めて問われています。

心の荒廃と、伝道の不毛は、背中あわせに存在します。語られるべき主の言葉が本当に語られ、聞かれるべき主の言葉を聞く、「主のために」、主が通られる道を開き、その御言葉に従う生き方の回復なくして、希望への転換はありえません。暗闇にあるものに必要なのは、時の流れに流されやすい人間の信仰ではなく、消えることない主の栄光です。その輝きによって、わたしたちの存在の無力さを知ることであります。

しかし、その無力で愚かな者に、主のための道を通せと仰せになる神は、消えることのない栄光の輝きで、わたしたちを覆い、咎を償い(2節)、「罪のすべてに倍する報い」を「主の御手」によって与えてくださるお方であります。わたしたちは主のために道をいつも通す生き方をするように呼びかけられている存在であると同時に、同時代を生きる人々に、家族に、主のために道を通すように呼びかける無名の預言者として立てられている存在でもあります。わたしたちの小さな働きを通して、主の栄光が輝く、そのような道へと召されている存在であることを覚えて、共に歩みたく思います。

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