イザヤ書講解

25.イザヤ書34書1-35章10節『エドムの審判とシオンの救い』

イザヤ書は13-23章において諸外国への託宣集が収められ、そのうしろに24-27章にかけて、所謂「イザヤの黙示録」と呼ばれる部分が続いています。そうすることによって、イザヤの審きと救いの使信はより明瞭にされています。そのようにここでもまた、28-32章の後ろに、独立した短い黙示録が挿入されています。28-32章はエルサレムの最期の運命を巡る預言を記していますが、34章と35章は短い黙示録となっていて、終わりのときの主の審判が憎まれていたエドムに対して行われ、救出された者のシオンへの帰還がそれに続くことがはっきりと語られています。

34章1-4節において、預言者は諸国民や国家に対して、彼らが裁きの座に来て、災いの告知を聞くように促しています。主はその全ての国に向かって怒りの審判を下されると語られます。その審判は宇宙大の規模でなされ、彼らは徹底的に聖絶の対象とされると語られています。彼らは主の民を迫害し苦しめた故に、主は怒りを燃やし、その怒りは諸国民が滅亡し、消失してしまうまでやまぬほど激しく燃えていることが明らかにされています。

しかし、この間近な世界審判の予告は、イザヤの使信が世界大の救いをもたらす神の恵みを強調しているかぎり、悔い改めと救いへの招きの意味を持っていることを見逃してはなりません。けれども、今は裁きだけが強調されています。

エドム人はエサウの子孫で、本当はイスラエルとは兄弟国民であります。しかし、バビロン捕囚期及び捕囚後の時代に悪意ある隣人の役割を演じました。

それ故、この審判の言葉は、シオンに対するあらゆる敵意の中心であり象徴であるエドムに向けられています。エドムはシオンと他の諸国民との争いのときには常に反対側に立ったからです。

この預言が語られた時代は、エルサレムを破壊しイスラエルの民を捕囚として連れ去ったバビロンはもうとっくに滅び去り、人々は預言者イザヤの言葉を書物として持って読むことのできる時代を生きています。16節の言葉がその事を暗示しています。イザヤの預言の成就は、この預言の未来を先取りし確証させることになるので、読者にその事を改めて強調しています。

5-8節には、エドムに対する徹底した審判が主の復讐としてなされると語られています。エドムは徹底して主の契約の交わりを重んじなかっただけでなく、契約の民に敵対し悪意ある態度を最後まで変えることはありませんでした。そのことは、主に対する反逆であると見なされています。それ故に、復讐は主が行われます。ここに神の教会の世にある生き方が示されています。わたしたちのなすべきことは復讐ではなく、主の御言葉に聞き、主の御旨を喜んで生きることです。敵対するものに対する復讐は主のなさることです。その審判の凄まじさ激しさにたじろぎ、身のすくむ思いが致しますが、エドムは他の異邦の国に比べて、主の恵みに近いところにいただけ、主の怒りもそれだけ大きかったということを覚えさせられます。

9-15節は、主の裁きを受けたエドムの永久の荒廃ぶりが描写されています。エドムの最期は、ソドム・ゴモラの滅亡と同じように、もはやこのような場所には新たな王国を再建することも、人が住むことができるように再建することも不可能です。そこには人間に敵対する動物と植物があるのみで、人間の入ってくるのを拒み、混沌の世界のみが存在します。

この重苦しい空気は、35章に来ると一転して明るい希望と喜びの空気に包まれます。荒野と砂漠は豊かな水に潤されて、花を咲かせます。サフランは水仙のことで、パレスチナの春の到来を告げる花です。サフランの花は、古代フェニキヤからギリシャにおいて、神話的生命のテーマと関連して言及されてきました。「サフランのように」は、死滅した万物の再生を示す比喩として語られてきました。

神の審判は、神に背き敵対する者には潤沢な大地に荒涼とした砂漠をもたらされますが、主の選びの民には砂漠が潤い豊かな楽園に変えられる恵みをもたらします。

「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。」(35章1節)と、その喜びの大きさが二重に強調されています。レバノン、カルメル、シャロンは、それぞれパレスチナにおける最も美しい地域です。その栄光と威光は主の栄光、神の威光として現され、恵みとして与えられます。イスラエルの回復は彼らの正しさではなく、主の憐れみと恵みの故であります。

神の審判は、その背きの罪に対する報いとしてなされますが、救いは恵みなのです。予定の教理は神の選びと遺棄の二重の選びを語りますが、聖書の強調は、罪に対する人間の責任と救いに対する神の自由な恵みの選びにあります。決して、審きと救いが同等に語られているのではありません。

わたしたちの「弱った手、よろめく膝」(3節)は、「雄々しくあれ、恐れるな。」(4節)と呼び掛ける主のみ声に聞くことによって強められます。それは絶望している者、希望なき状況にある者に対してなされる、主の呼びかけであります。イザヤは預言者として召命を受けたとき、主の言葉を聞きました(イザヤ書6章9-10節)。

確かに主の言葉のとおり、イスラエルの民はイザヤの語る主の御声を聞かず、悔い改めませんでした。自分の目、耳、心がいかに頑なで鈍いかを知らされました。自ら立ち返ることはできなかったのであります。彼らが求めなかったのに、彼らの敵に主が復讐し、神が来てあなたがたを救うと言われるのであります。そして、その目を開き、耳を開け、足を癒し、舌は喜び歌うように変えられます。

主イエスは、イザヤ書35章5節を引用し(マタイ11:5、ルカ7:22、ヨハネ9:6,7)、それをご自身の救いの業となさいました。それは、心の回復に留まらないからだの復活を含む全人的救いの実現であります。

そして、この救いは8節以下において礼拝の交わりの回復として語られています。主の救済の目的は礼拝の回復であります。主の贖いが成し遂げられる主の日、主の贖われた者の礼拝への道は整えられ、何者によっても妨げられることがありません。荒野でイスラエルの民を火の柱雲の柱で導かれたように、「主御自身がその民に先立って歩まれ/愚か者がそこに迷い入ることはない。」(35章8節)確かな主の導きが、主を礼拝するものに与えられると語られています。その恵みの素晴らしさを35章10節において歌われています。

バプテスマのヨハネは荒野で呼ばわる者の声として主の道を整える役割を果たしました。預言者は主に至る道を用意しました。しかし、主の臨在されるシオンには主の救いがあります。そこにおける主との交わり、ここに永遠の命の交わりがあります。人はこの命に至る巡礼の旅の途上にあります。そして、主イエスとの交わりに入れられた者には、乾くことのない潤い、恐れを知らない喜び、疲れを知らない健やかな復活の体をも約束され、主イエスとの交わりの礼拝には、「喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る」と言われています。

これは、主の日の終末的な恵みとして語られていますが、主の日礼拝における主イエスとの交わりにおいて既に与えられている恵みでもあります。

旧約聖書講解