イザヤ書講解

13.イザヤ書9:7-10:4『主の怒りはやまず』

この箇所はイザヤの初期の預言に属し、11節が示す状況は前733年シリア・エフライム戦争以前になされたことは確実です。この預言の背景にあるのは、アッシリアの侵略の脅威に対して、北イスラエル(エフライム)がダマスコのレツィンを首謀者とする反アッシリア同盟に加わるよう要求され、レツィンに代表される北東のアラムと東西のペリシテに飲み込まれようとしていていた時代です。「しかしなお、主の怒りはやまず/御手は伸ばされたままだ。」(9:11,16,20,10:4)と4回繰り返されている折り返し句は、北イスラエルに対する主の審判を語っています。それは、主をのみ恐れ、主の正義と公平を行なわないで、貧しい者、弱い立場にあるものを虐げる中で、自分たちの繁栄しか考えないで生きていた悪しき政治的指導者や、偽りの預言を語って偽りの平安を語る偽預言者に向けられた、主の怒りの審判として語られています。この箇所の最後は、5章25-30節に続いています。その審判の方法は、主が直接民を裁くのではなく、主の手として用いられたアッシリアという強大な敵の力によって国を滅ぼすというものです。その審きは徹底的になされることが、5章26-30節に述べられています。ここでは、その最後の5章30節だけを引用します。

その日には、海のごう音のように
主は彼らに向かって、うなり声をあげられる。
主が地に目を注がれると、見よ、闇が地を閉ざし
光も黒雲に遮られて闇となる。

イザヤは南のユダ王国で活躍した預言者でありましたが、イスラエル全体に対して責任を感じていました。そして実際、そのような責任を持つものとして、北のイスラエルに対して、ここで預言をしています。

9章7節に「主は御言葉をヤコブに対して送り/それはイスラエルにふりかかった」とありますが、ヘブライ語の言葉を表すダバールは、出来事をも意味しています。主の御言葉は将来起こることを告げるだけでなく、将来起こる事態をも作り出す働きもなしています。この場合、北イスラエルに対する、アッシリアのティグラテピレセルの朝貢要求が意味されています。この事件に対し民は「それを認めた」と8節に述べられていますが、およそ半世紀続いた繁栄の時代を経験してきた北イスラエル王国の住民は、その傲慢な態度を改めることができず、「なお誇り、驕る心」(8節)を持って「れんがが崩れるなら、切り石で家を築き/桑の木が倒されるなら、杉を代わりとしよう」(9節)と述べました。「れんが」と「切り石」、「桑の木」と「杉」が対比されていますが、建築素材としては、「れんが」よりも「切り石」の方がより優れ、「桑の木」よりも「杉」の方が優れていますので、民が語ったといわれるこれらの言葉は、この困難な状況を迎えて、より堅実な主により頼み、その言葉に自分を委ねて生きるというのではなく、反アッシリア同盟を結んで、これにユダにも加わらせて飲み込もうとする態度が示されています。アラムとペリシテはそのような無謀な行動にイスラエルを巻き込み、人の目には、強固な反アッシリア体制が整ったように思われますが、実はそのこと自体が主の審判であったことをイザヤは明らかにしています。そして神の審判の御手は、イスラエル王国が滅亡にいたるまで伸ばされたままであることを、「しかしなお、主の怒りはやまず/御手は伸ばされたままだ」という言葉において示されています。

イザヤはアッシリアによって受けた打撃が神から出たものであることをイスラエルの民に明らかにしていますが、12節には、イスラエルの民がイザヤの指摘する主の審判の事実を受け入れず、自分たちを打った方、主に立ち帰り、万軍の主を求めない不信仰を明らかにしています。

したがって、なおも不信仰を示すイスラエルに対する更なる主の裁きが13-16節にかけて明らかにされます。イスラエルの上に立つ指導者たちはすべて「偽り」を持って民を導き、「迷わす」者となり、その破滅をもたらすゆえにさばかれることが明らかにされています。預言者は民の誤りを指摘し、正しい主の道を教えるべきなのに、その働きをしていなかったのです。この国には、もはや主の正義を行い、それを教えるものがいないのです。

「それゆえ、主は若者たちを喜ばれず/みなしごややもめすらも憐れまれない」(16節)という主の審判が語られています。「若者たち」は、戦いの時、最強の戦力となる精鋭部隊とされています。それは選ばれた軍隊の担い手として、民の運命を担うものとして評価されるべき者でありました。しかし、国の指導者の誤った道の選択、指導は、こうした国の将来を担うはずの「若者たち」の命を奪うことになります。そのような戦いにおいて、主はこれらの若者を助けません。彼らを喜ばれないことによって、その政治的・霊的指導者たちの誤った指導に対する裁きを明らかにされます。

国の滅亡に至る悲劇は、将来ある若者の命を奪うだけでなく、最も弱い立場にあり、最も保護を必要とする「みなしごややもめ」たちに最も厳しい形であらわれます。主はこの者たちさえも「憐れまれない」といわれます。この者たちさえ憐れむことができないほど、「民はすべて、神を無視する者で、悪を行い/どの口も不信心なことを語るからだ」(16節)とその理由が述べられています。このように語られる主は非情なのでしょうか。それほどまでして怒りを表す必要はないではないか、と思いたくなりますが、事実は違います。

民の貧しいものを虐げてきたのは、この国の指導者たちです。3章14—15節に彼ら指導者の不正義に対する主の審きの言葉が次のように述べられています。

「お前たちはわたしのぶどう畑を食い尽くし
貧しい者から奪って家を満たした。
何故、お前たちはわたしの民を打ち砕き
貧しい者の顔を臼でひきつぶしたのか」

主はそのものたちが行っている悪、罪にふさわしい審き、怒りを示されただけです。しかし、それが主の御手によってなされているというところに、希望もあります。憐れみを受けなかった者を、いつまでもそのままに放置される主でないことは、11章4節から明らかです。「エッサイの株」から育つ「若枝」によって、「弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる」という、主の救いが表されることが語られているからです。

しかし今は、そのような気配すら語られていません。今は、主が助けの御手を伸ばせられないほど、ひどい民の罪の現実が明らかにされる時であるからです。

9章17-20節は、12-16節で述べられた民の罪によって、民族全体が滅びることを、火が森を焼き尽くす暗喩で述べられています(17節)。この火は確かに人間の罪を表していますが、同時に神の審判でもあります。本来、兄弟同胞である民同士が相争いあうことは、あってはならないことです。しかし、北イスラエル王国の代表的部族であるマナセとエフライムが対立し、そして彼らは更に、南の兄弟国ユダに襲い掛かるといわれています(20節)。敵が襲い掛かる前に、このように内紛している国は、既に自滅の道をたどっています。国は外側から攻撃されて滅びるのでありません。内側の腐敗、堕落によって滅び、内紛は外敵に戦う前に、国を自滅させます。主の怒り、審きは、そのような国に助けをあらわさないということで示されることを覚えなければなりません。

10章1-4節は、3章14-15節で述べられているような、強者の立場で弱者の権利を奪う者たちへの災いの宣言がなされています。

彼らは弱い者の訴えを退け
わたしの民の貧しい者から権利を奪い
やもめを餌食とし、みなしごを略奪する。(10:2)

イスラエルの政治的指導者たちは、このような悪政を平気で行なうほど腐敗堕落していました。

しかし、9章16節では、この悪政に苦しむ「みなしごややもめ」たちへの主の憐れみが表されないことが述べられていますが、ここで、ついに、彼らの権利を蹂躙した悪しき指導者たちへの厳しい主の審きが告げられています。国の内部にこのような差別や抑圧が行われていれば、神の審判の時に、襲い掛かる外敵の攻撃を防ぐ可能性はありません(10章3節)。その結果は、彼らが貧しい民にしていたように、戦いによって死ぬか、捕らわれの身となるしか残されていません。

イザヤはこれら一連の北イスラエルに表される徹底した主の審きを、「しかしなお、主の怒りはやまず/御手は伸ばされたままだ。」という句を持って結んでいます。この審判は、しかしイスラエルに対してのみ向けて語られた言葉として理解することは赦されません。イザヤは北イスラエルの審きの現実を南のユダの民に、エルサレムにいるシオンの民に告げているのです。その審きを「他山の石」として聞くことを求めています。

これは「主の言葉」、即ち「主の出来事」として起こったことが語られています。これらの悲劇的結末はすべて、自分たちより強い敵の力によって国が滅びたのでなく、主の言葉を退けた民に表された、「主の言葉」による審きとして、「しかしなお、主の怒りはやまず/御手は伸ばされたままだ。」と、イザヤは語るのです。そうであるなら、その悲惨な現実から立ち直る道は一つしかないことがまた示されています。それは主の言葉に立ち返り、これに聞くということです。主はそのように悔い改める者に、「怒り」ではなく「憐れみ」の「御手を伸ばされる」お方です。この厳しい審きの言葉の中に、主の救いの御手が隠されているのを見逃さないことが大切です。主は悔い改めることのない私たちの罪を呵責なく裁かれますが、その審きのかなたに、悔い改めへの招きをなされる神の愛があることを信仰の目で見ることが大切です。

旧約聖書講解