イザヤ書講解

8.イザヤ書5:1-7『ぶどう山の歌』

この「ぶどう畑」の歌は、主に愛され、多くの恵みを頂いていたユダ王国とエルサレムの住民が、その恵みにふさわしい信仰の実を結ばず、主の正義を踏みにじる罪を犯しつづけたことに対する主の審判を歌っています。ここで預言者が「わたしの愛する者」と歌っているのは、「友」となった神を指しています。イザヤは、丹精にぶどう畑を造ったのに裏切られた友のことを歌っています。「ぶどう畑」が新婦の比喩であることは、この歌の聞き手の誰もが知っていました。そして、「わが友」が主を指していることは、この歌の進行と共に明らかになっていきます。

友は一つの素晴らしいぶどう山を所有していました。当時のぶどう畑は、今日の日本のぶどう畑のように、棚にぶどうができるようになっているのではなく、地ぶどうで、石地にぶどうを這わせてありました。石は夏の日光で温められます。しかし、エルサレムは800メートルの高地にありましたので、朝露が降ります。その露を受けて、昼間、急に暑くなるので、ぶどうが甘くなるよい条件が整っていました。しかし、葡萄山は四方から何にもさえぎられずに日がよく当たりましたので、荒れ地になったり、夏の暑さで干からびて地割れすることもありました。ぶどう畑は、それらから守るために、よく掘り起こされ、柔らかくほぐされていました。石は拾い集められ、よく手入れされていた土地に上質の葡萄が植えつけられました。

また、この友人は、ぶどう山の中央に、泥棒や鳥たちを見張るために塔を建てました。立派に育ったなら、用意した酒舟で葡萄酒を造ろうと酒舟までも掘って用意していました。一切がきわめて立派に準備されていたので、葡萄山の持ち主は、当然、美しい紫色のぶどうが豊作になるのを待望していました。

ところが今、収穫の季節を迎え、幻滅することになりました。収穫の時期になって、つるについていたのは、未熟なおそなりの葡萄ばかりでした。小さく、硬い、酸っぱい葡萄で、味も悪く、使いものにならない代物だったのです。

ぶどう畑と、丹精こめてその畑を耕す農夫とは、新郎と新婦の関係にあります。ぶどう畑を耕す農夫の育て方には何の落ち度もありませんでした。だから、ぶどう畑が実を結ばないことに対して、夫には何の責任もありません。むしろ実を結ばない不実な妻に対して非難をするのは当然のここと思われます。このぶどう畑の歌を聴いた聞いた聴衆は、この不実な妻であるぶどう畑は、自分たちの事であると思わず、いい気味だと思ったかもしれません。これまで預言者イザヤは、「わたしの友」のことを語ってきました。

3節からは、預言者は語らず、突如としてその友人である主なる神が語り出します。この友人は、直接、そこに集まっているエルサレムとユダの住民にむかって、自ら事柄の裁定をしてほしいと要求します。

わたしがぶどう畑のためになすべきことで、
何か、しなかったことがまだあるというのか。
わたしはよいぶどうが実るのを待ったのに、
なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。

この4節の言葉は、ぶどう畑の所有者に決して落ち度がないことを再確認する言葉です。不実の花嫁は、律法の定めによれば、石打ちによって死刑に処せられねばなりません。イザヤは、こうしてぶどう畑、即ち女に対する愛が裏切られたことに対する失望を語ります。それは、ほかならぬ不実な主の民、イスラエルの背信の罪を表していました。神の民は不実な花嫁だったのです。

5、6節でわたしの友のぶどう畑に対する裁きが語られます。しかし、この歌で、語り手は引き続き「友人」でありつづけます。獣や放牧されている家畜から守るために、石垣の外側に植えられていた生け垣は、取り除かれ、石垣そのものが取り壊されます。そうすると、誰でも侵入できるようになります。ぶどう山は荒れるままにまかされ、略奪されるままにまかされます。手入れは全然なされなくなるのです。こうして残っているぶどうの木の枝は伸び放題になり、木は手入れされないので、いずれは全滅することになります。いばらと雑草がはびこって、ぶどうの木を窒息させるからです。

そして、イザヤはここまできてはじめて、この友人がどの様な人物であるかを明らかにします。この人物が雲に命じて雨を降らすことが出来る力を持つとすれば、それは、この人物が神ご自身を顕わしているではないかと預言者は語るのです。

イスラエルの家は主のぶどう畑であり、ユダは主の最愛の農園です。ぶどう畑が花嫁の比喩であることが最後まで語られ続けている事は、この歌の理解にとって重要な意味を持っています。

神の民は、神の不実な花嫁なのだ!神とイスラエルとは、愛と信頼の契約の絆で結ばれている夫婦でした。妻であるイスラエルは、夫である神に愛され、恵みを一杯注がれていたのに、イスラエルはその愛と信頼に応えなかった、とイザヤは語ります。

そして最後に、主の期待が何であったかが語られます。それは、「公平」(新共同訳は「裁き」と訳している)と「正義」であったと語られます。ヘブル語で公平はミシュパートと発音します。流血はミスパハです。正義はツェダカーで、泣き叫びはツェアーカーです。語呂合わせがここでなされています。

預言者はここで単なる言葉遊びをしたのでありません。神への背信の罪とは、単なる内面的・宗教的罪に留まらない、もっと具体的な隣人に対する罪も、それは全く神への罪なのだ、と預言者は語ります。万軍の主は、民の間で正義と公平が行われることを期待しておられます。神の言葉は、そのような具体的な状況の下で何時も聞かれることが期待されています。

イザヤは、直接的には、この言葉を、民の指導者に向けて語っています。しかし、この預言が扱う裁きは、悪しき指導者に搾取される民にも及びます。けれども、その審判の責任は、貧しい搾取される孤児や寡婦たちにはありません。にもかかわらず、この現実の歴史における神の審判は、国全体に及ぶのです。

預言者は、その審判の言葉を語って、この歌を突然終わらせています。ここには悔い改めを求める言葉が、一つも発せられていません。そうすることによって、預言者は、主の審判の不可避なことを聞き手に明らかにし、その緊張の下に置き、この歌の解釈を聞き手に委ねているのであります。

今日、この歌を聖書全体の光で読む自由がわしたちに与えられています。神の審判は、不実な指導者だけでなく貧しい民にも及びます。では、神は不公平をしておられるのか、と言いたくなります。けれども、それは違います。審判に直面した民は、苦悩の中から、神に叫びを上げることができ、その叫びは神に聞かれます。神は、その流血を見、叫びを聞かれるのです。神は、不実の民を裁くことによって、悔い改めの声を起こさせ、その声を聞かれて、救いの手を差し延べることのできるお方であります。神は民が立ち帰るのを期待して待っておられるのです。だから、裁きは、悔い改めへの招きであると同時に、救いでもあるのです。

だからと言って、指導者は不実の罪を犯し続けてよいはずがありません。エジプトにおけるイスラエルの叫びは天に届き、主はモーセを立てて、エジプトのファラオを裁きました。今や、イスラエルの中の指導者が、エジプトのファラオのように民を泣き叫ばせているのです。イスラエルの指導者は、この過去の出来事を想起して、ファラオに現された神の審判を回避するために、これ以上民の叫びが天に届かないように悔い改めねばなりませんし、民は民で、その叫びを神に向かってあげることが大切です。

主イエスは、この譬えをマルコ福音書12章1-9節で、邪悪な農夫のアレゴリーにして、取り入れておられます。そこには、ぶどう園の主人である神は、収穫の時に、収穫を受け取るために送った僕を、農夫たちが、次々に迫害し、追い返し、殺してしまった、ということが語られています。これらの比喩は、主が送られる預言者たちの語る主の言葉を退け、預言者を迫害するイスラエルの悔い改めることない頑なな罪について語っています。そして、農夫の主人は、最後に、愛する息子を送れば、「敬ってくれるだろう」と期待して送りますが、その主人の「跡取り」である息子を殺してしまえば、「相続財産は我々のものになる」といって、その息子さえ殺してしまい、ぶどう園の外にほうり出してしまった、という話であります。その「息子」は、神の御子としてこられた主イエスご自身のことであることは明らかです。主イエスは、このように心をかたくなにするイスラエルの罪を、比喩において明らかにされていますが、主イエスの語られた比喩は、繰り返し悔い改めを求めて、預言者を送り、最愛の御子さえ惜しまないで送られた忍耐深い主の愛にはぐくまれながら、それを拒み続ける不実な主の民の心のかたくなさが物語られています。「主のぶどう山」として愛され、はぐくまれている恵みを深く覚え、悔い改めて主に立ち返り、御言葉への真実な応答をすることがわたしたちに求められています。

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