イザヤ書講解

4.イザヤ書1:21-31『神の審判と救い』

この預言は、イザヤの初期の活動に属するものと考えられます。内容的には、17節までのエルサレムの誤った神礼拝に対する告発、18-20節の罪の赦しへの招きと、同一の主題が扱われています。この箇所の主題は、『神の審判と救い』です。

21-23 節において、エルサレムの罪に対する告発がなされています。エルサレムの神礼拝の堕落は、宗教面だけでなく、倫理面にまでおよんでいました。エルサレムは、社会的・文化的には繁栄の直中にありましたが、イザヤの目には、その繁栄は見せかけに過ぎず、民の歩みは、本来のあるべき姿から程遠い、憂慮すべき状態でありました。主の民としての出発点では、「そこには公平が満ち、正義が宿っていた」(21節)とイザヤが語るように、エルサレムは正義と公平の砦としての役割を果たし、主と主の民との契約の交わりの秩序が現実に有効に保たれていました。

しかし、「支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり、皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する」(23節)堕落した状態にありました。司法においても、「孤児の権利は守られず/やもめの訴えは取り上げられない」というあり様でありました。主の正義と公正を守り行なう責任を持つものがそれを果たさず、エルサレムには、それに相応しい栄光は失われていました。

イザヤは、この都は、「遊女」になったと言って、その堕落を明らかにしています。世の人は、繁栄と政治的な安定によって、社会の価値を判断しますが、イザヤは、そうした見せかけの安定や繁栄ではなく、むしろ、神の正義と公平から見て、評価しています。

ここでは「遊女」という言葉は、神への信頼によって生きようとしない不信仰の罪を示す言葉として用いられています。

エルサレムに正義と公平が行われなくなった結果、町は「今では人殺しばかりだ」といわれるほどの状態になっていました。それをイザヤは、価値ある銀であったのに、不純物の多い「金滓」となっている、といって嘆いています。

神によって選ばれたエルサレムは、神の公正と正義を忘れた結果、指導者も、住民も、社会秩序も、道徳も、なにもかもが不純になって、無価値なものとなった現実を示すために、イザヤは、金滓となった銀、水で割られたぶどう酒に譬えています。銀は貨幣として用いられていましたので、不純な銀はその価値を失い社会に経済的混乱を招きます。どんなに良いぶどう酒も、水で割られたのでは味のない飲めない無価値なものになってしまいます。

神の公平と正義が失われた悲惨な状態は、殺人ばかりか、裁判における不正にまで及んでいいました。裁判官たちは、正しい裁きを行う為に立てられているはずなのに、却って反逆者、盗人の仲間となってしまうことさえしていました。賄賂をとって裁きを曲げ、社会的弱者である孤児や、やもめのために正しい裁きをせず、その訴えをまともに取り上げようとしなかったのです。

神によって立てられた社会正義と公平を行うべき指導者である為政者と裁判官がこんな状態であれば、民は嘆き、ためいきをつくばかりです。イザヤは嘆きの声を民とともに上げています。

しかし、イザヤは、この現実を神の光の下で見ています。嘆きの声を共にあげることによって、イザヤは民の貧しいものと連帯を図っています。しかしそれだけでは事柄は少しも解決しません。この事を神はどう見ておられるのか、どのように取り扱おうとされているのか、信仰者の目はここに向けられねばなりません。

24-28節には、この現実を変えるべく、イスラエルの罪を裁かれる主の審判と主の救いが語られています。

イザヤは、ここで、「主なる万軍の神」と呼んでいます。この神が全てのものを掌握しておられます。イスラエルの繁栄も、平和も、すべて「万軍の主」に担われています。言い換えれば、万軍の主はエルサレムの不正義を何時までも看過されることはないということです。

万軍の主は、その敵を討ち滅ぼされるように、不正な為政者と裁判官を裁かれます。金滓となった銀を、灰汁のように溶かして、不純な浮き滓を取り除くように、背信の指導者を必ず裁く、と主は言われます。万軍の主は、エルサレムの不正義に対して、イザヤや真の信仰を持った正しい者たちと同様に、嘆いておられます。そうであるからこそ、真実に生きようとしている者たちに相応しい助けと導きをなされるのです。

公平と正義がエルサレムから失われて一番大きな嘆きの声を上げているのは、神ご自身です。

17節までに、誤った神礼拝、偽善の信仰への告発が成されました。
しかし、人はそれで直ちに神に立ち帰って、悔い改めの信仰を示しませんでした。18-20節に表されている赦しの福音を聞き、素直に神に立ち帰りませんでした。そこに嘆くより仕方がない罪人のうなじのこわい現実がありました。しかし、人の側にはこれを変えることは不可能でも、神にはできます。神はそれを、ご自身の正義と公平に基づき、裁きを行なうことによって行なわれます。

金滓の灰汁を取り除くと、純粋な銀ができ、不純物は取り去られ、大切な部分は残されます。神は焼き尽くす火である神の公平と正義によって、その信仰を純化されます。エルサレムは一時の繁栄や政治的な安定によって、正常な信仰の判断を見失っていました。しかし、神の公平と正義の裁きは、必ず行われます。その時、全てが明らかになります。神の審判は、神を信じる者たちと信じない者たちを公平に扱われます。神は純粋な銀を保つために、金滓の灰汁を取り除かれます。

神を信じないものは裁かれ、真の神の民の群れの再興を神がなされます。確かに神の裁きは恐るべき結果をもたらします。しかし、主を信じ、主の公平と正義を困難の中で守り通した者にとって、その裁きは救いなのです。溶鉱炉を通って純化されていく銀のように、その信仰は聖化されていきます。ですから、イザヤの裁きの告知は、実に慰めに満ちた福音の言葉であります。

「シオンは裁きをとおして贖われ/悔い改める者は恵みの御業によって贖われる。背く者と罪人は、共に打ち砕かれ/主を捨てる者は断たれる。」(27-28節)と、イザヤは語ります。シオンは、神の公平と正義によって回復され、解放されます。今、驕り高ぶる為政者よ、裁き司よ、悔い改めて立ち帰れ、苦難にある真の信仰者よ恐れないで、主の道を真っ直ぐ歩め。これがイザヤの使信です。

29-31節には、偶像崇拝者への審判が告げられています。
政治や社会秩序の乱れの原因は、為政者の「倫理」の欠如がありました。その根源には、宗教心のゆがみにあることを、パウロは指摘しています(ローマ書1章18節以下)。イザヤもパウロと同じ目をもって、その歪んだ宗教心がもたらす悲惨な結末を、「慕っていた樫の木のゆえにお前たちは恥を受け/喜びとしていた園のゆえに嘲られる。」(29節)と告知しています。「樫の木」において、カナンの偶像の祭儀がおこなわれました。イスラエルの民の中にこれに加わることによって、カナンの繁栄に預かろうとする者たちがいました。そして、実際に一時的な繁栄に与る者がいました。「樫の木」に対するカナンの祭儀信仰は、ある種の「蘇り信仰」です。しかし、イザヤはこれらの神々を崇拝するものの最後は滅びしかない、と告げています。樫の木のように萎えて枯れ、最後は、火に投げ捨てられてしまう、とイザヤは告げています。

しかし、この裁き告知は、悔い改めへ招くためになされています。裁きの告知の裏には、その告知を聞き、悔い改める者に対し、罪の赦しと救いがあると語られています。「シオンは裁きをとおして贖われ/悔い改める者は恵みの御業によって贖われる。」(27節)というイザヤの言葉を、深く心に刻み込むことが大切です。主に立ち帰り、主の救いに与る者となるよう、主は、わたしたちに求めておられます。

旧約聖書講解