ホセア書講解

22.ホセア書10章9-15節『欺きの実』

9-15節にも、王国と祭儀に関する預言が扱われている。

9-10節は、9章9節に引き続き、再びギブアについて語られている。ここでは、ギブアの「二つの悪」が言及されているが、その第一の罪として、士師記19章-21章に記されているベニヤミン族をほとんど壊滅の寸前にまで至らしめた、ベニヤミンの人々のギブアでの汚辱行為が念頭に置かれている。ホセアは、イスラエルの罪を特徴づける出来事として、このギブアの出来事を記憶にとどめている。それゆえ、「イスラエルよ、ギブアの日々以来、お前は罪を犯し続けている」という。あのギブアの汚辱行為以来、すなわちカナンにおけるイスラエルの歴史の始めよりこのかた、イスラエルの罪は、保持されている。それは、ギブアの地について言えるだけでなく、イスラエルの罪の体質となって、イスラエルは、その「罪にとどまり」続けているというのである。

9節後段は、そのような体質の続くギブアの「背く者らに」臨む罪の行為としての戦いが起こらないだろうか、というホセアの問いかけがなされている。かつて滅亡の危機を免れたベニヤミン族は、復興したが、彼らの宗教的・道徳的感覚は、昔のままである。そこで罰として、また戦いが起こる。今度は、北からアッシリアの攻撃を受け、戦乱は南のギブアにまで及び、全土は蹂躪されることを、ホセアは懸念しこれを告げるが、これは第二の罪との関連で述べられている。すなわち、この戦いは、ギブアから出発した王国の成立と関係がある(サム上10:27,11:5以下)。王国は、政治的に見てペリシテ人によって生じたイスラエルへの脅威に対抗して生まれた(サム上9:16)。ホセアは、王国成立を、ギブアの恥ずべき行為と並んで第二の罪として数えている(10節)。そして、この二つの罪の本質は、イスラエルが主の民であることを続けなかったことにあるのではなく、放縦な生活にふけり(士師19:30)、王国を自分で支配するという異教徒(ほかの国)と同じ不法を行っている点にあった(サム上8:5)。

しかし、主の目には、そのような歩みをするイスラエルは主の民ではなく、主の栄光と道徳的促しを無視する、「背く者ら」でしかなかった。だから今や、主は「わたしは必ず彼らを懲らしめる」という。諸国の民は結集して、イスラエルの「二つの悪」のゆえに神の罰を行う、という。アッシリアの軍勢は、さまざまな民族で構成された軍隊であったので、ホセアは「諸国民は」といっている。ホセアは、ここで主(ヤーウェ)を、諸国をも支配する世界と歴史の主として示している。ヤーウェこそ、大国をその計画のために用いることのできる、主権者にほかならない。この世界の歴史において、主の力と意志は唯一のものであり、結局は、主の力と意志のみが貫かれる。主の民は、主が与える特権を享受するものとしての選びに与るが、不服従は罰せられずに終わることはない。そして、主の意志から離れた、人間の考案した安全のための処置は、神に対する責任とその審きの前には、何の役にも立たないことが、これらの言葉によって告げられている。ホセアは、主をこそ畏れよと、これらの言葉によって語るが、その畏れは、主の愛を知る喜び・信頼から生まれるものであることを忘れてはならない。主は、民に、ご自身の愛のうちに生きよ、との招きの意志をもって、預言者を通してその罪を告発し、立ち帰りを待っているのである。

11-13節は、主と民との間がよい関係にあった時代(荒れ野時代)を回顧しつつ語られる、イスラエルの背きの罪に対する主の嘆きの言葉である。パレスチナ定着後のイスラエルは、定着農民として農作業に従事するが、荒野時代は、半遊牧の民として農作業には従事しなかった。しかしホセアは、エフライムの荒れ野時代を、主から思うがまま食べさせてもらえていたので、脱穀作業を嫌がらない牛の姿にたとえて語っている。ところが、パレスチナ定着時代を、もっとつらい労働をイスラエルがやらされる時代として語り、くびきにつながれて耕し、鋤きならす牛のように語っている。

12節は、カナンにおけるイスラエルの労働に対するヤーウェの教えが、わかりやすく語られている。それは、カナンにおける農耕宗教と対立する、完全に新たな労働のあり方を示すものであった。預言者が、イスラエルの耕すべき新田について語る時、その労働を、主の教えとの関係で語る。エレミヤは、「あなたたちの耕作地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな」(エレ4:3)と語る。ホセアも、「恵みの業をもたらす種を蒔け/愛の実りを刈り入れよ。/新しい土地を耕せ。/主を求める時がきた。/ついに主が訪れて/恵みの雨を注いでくださるように」と語る。

バアル宗教において、農作物の収穫は、バアルの恵みとして語られるが、それは、人間の利己的な利益の願望の投影として要請された、自然と一体となった自然に支配される神でしかなく、そこには、どこまでも利己的な利益享受の信仰しかない。

しかし、12節は、神の愛と義に目覚める信仰から生まれる労働に対して、積極的な評価が語られている。労働それ自体が、神の恵みの業であり、その労働による実は、神の「愛の実」であり、それは、神への服従と愛によって生きる信仰によって刈り取ることがゆるされる実である。その信仰自体が神の賜物であって、神の賜物なしに人間の一切の努力は無益であることを教える。主は、主を求めるもののところに訪れて、「恵みの雨を注いでくださる」。人間が、労働において自らを神に献身する存在として高める、労働の聖化と積極的評価とがここで与えられている。

パウロは、ガラテヤ書6章7節後段から8節において、「人は自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります」と語っている。人間は、礼拝が直接行われる場所だけで、霊的になれる者でない。労働もまた、神の恵みの領域として、霊の種を蒔き、そこから霊的な恵みを刈り取る場として召された神の召命の場でもある。そのような正しい位置づけの行われない宗教は、礼拝祭儀においても道徳的になれない。生の全体を通して、神の言葉に聞く者であることが、約束の地カナンにおいて問われている。しかし、それは、この世に生きる民としてのあり方であることを問う言葉であることを、忘れてはならない。イスラエルは、カナンという歴史的・文化的情況の中で、神の言葉に聞く民であるかが問われた。しかし、そこで表される主の救いの意思、即ち、御言葉に聞くことにおいて表される神の救いの意志を認めなかったので、救いを取り逃がしてしまった。最初は、郷に入れば郷に従え式の、農耕儀礼におけるバアル宗教の受容程度の考えしかなかったにしても、イスラエルは、そこをヤーウェの約束する土地、即ちヤーウェの支配する土地であるという事実を見失っていた。その土地の歴史と、文化を支配するのは、バアルではなく、主(ヤーウェ)であった。だから、その土地における労働(農業)においても、ヤーウェを求め、そこでヤーウェを見出す機会として、歴史と文化とに関わっていかねばならなかったのである。この理解の欠如したイスラエルに向かって、ホセアは主の言葉として、「ところがお前たちは悪を耕し/不正を刈り入れ、欺きの実を食べた」と告げる。果たして、われわれの労働自体はどうなのか、そのことが同時に問われている。

13節後半から15節に記されるこの章の最後の言葉は、己が力を頼りとし、軍事力を頼りとする、誤った信頼に対する叱責である。それを、預言者は絶えず神への信頼の欠如のしるしとして語ってきた(アモス6:13,イザヤ31:1)。戦車の数、兵の数を誇ることは、神への信頼の欠如を意味する、というのが預言者の強い主張であった。ホセアも、同じところに立ってこれを語っている。しかし、ホセアは、軍事力そのものを非難しているのでも、非武装中立の平和主義の理想を述べているのでもない。自らの強さ力に頼って神の助けなしに済むと信じ、歴史的決断が迫られる時に、神の存在とその意義を背後に押しやってしまう、誤った信仰の態度が非難されているのである。人間のどのような力も、神の力に代わることはできない。ホセアは、すべてのものの上にあり、すべてのものを治めておられる神を、その王座から引き降ろすことを問題にしているのである。

14、15節は、神の王的支配を無視した人間の高慢に対する、威嚇の言葉が語られる。その威力は、審きによって表される。イスラエルの上に表される殺戮の嵐は、あらゆる人間的な力の保障に対する無力を明らかにする。ホセアは、シャルマンのベト・アルベルの破壊をあげている。その破壊の狂暴さは、当時の人々の記憶に深く刻み付けられたものであったと思われるが、この事件の内容について確証するものはない。しかし、歴史的な記憶が、この預言の核にあり、預言者はそれを神の厳しい審きの教訓とし、王を神に無関心な人間的な権力意識の代表、その担い手として示している。

主を最後まで信頼せず、己が力を頼りとする王は、必ず倒れることを告げ、この章は終わる。しかし、この言葉の裏には、主の恵みを信じて、主をのみ信頼して主の民として歩め、との呼びかけがなされていることを聞き逃してならない。私たちの間に訪れ、恵みの雨を注ぐ神に目を留め、この世の直中で、主の恵みによって実る恵みの業に励み、その種を蒔く業を怠ってはならない。カナン、そこは主の約束の地、しかし、バアルを礼拝する者たちが住む異教徒のいる土地である。しかし、神は、そこで恵みを約束される。その約束を聞き、その土地を主の愛の実りを刈り入れる「新しい土地として耕す」、それが、主の民の生き方である、との呼びかけを聞くことを主は期待しておられる。

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