ホセア書講解

19.ホセア書9章7-9節『預言者への憎しみ』

ここには、預言者に向けられる憎しみに対して、ホセアが、神からの預言者として、ひるまず自らに課せられたその「つとめ」が何であり、預言者に背く民を主がどのように裁かれるかを明らかにする言葉が記されている。

預言者の中で、ホセアだけが迫害を受けたのではなかった。神の言葉を真実に取り次ぐ預言者は、皆、王や民の指導者、民から反発を受け、迫害を受けた。それは、預言者が遣わされる状況からして避けることができない事柄であるといえる。なぜなら、民が主の契約を忘れ、主の命令と言葉から離れ、主に背く歩みをしているところに、主の御心を告げるために遣わされたからである。背信の民に対する審きを明らかにすることが、預言者のつとめの主要な任務としてあっただけに、悔い改めない民は審きを告げる預言者に、憎しみを向けることになった。

特にホセアは、民が行う祭儀を徹底的に批判したので、人々から否認され迫害されることになった。イスラエルの礼拝は、主なるヤーウェを礼拝しているのではなく、ヤーウェに背く行為でしかなかった。そのような礼拝を止めるよう、ホセアは徹底して語った。そのためホセアは、長い間民から敵意を受け、緊張の中で時を過ごさねばならなかった。その解決を、今ホセアは望んでいる。そして、ホセアは、自分に向けられる敵意と数々の咎に対する清算と審きの日がやってきた、と確信を与えられ、この使信を主よりの言葉として告げている。

ホセアが告げた使信が、神よりもものであるなら、その迫害は、預言者に向けられたものでなく、預言者に命令を与えた神にも向けられている。だからホセアが、報いの観念を強く正面に押し出す時、預言者の信仰が何であるのかを問われることになる。預言者は、神の事柄が圧倒的勝利を収めるという信仰の確信なくしてメッセージを語ることはできない。預言者は、主が「わが民」(アンミ)とした者を「わが民でない」(ロ・アンミ)と告げ、またその逆を告げる神の告知者である。その事柄を、誰よりも痛く身にしみて体験させられたホセアは、その体験から、深い信仰の叫び声として語る。

「裁きの日が来た。決裁の日が来た」と、確実に来る主の裁きの日の到来をホセアは告げる。「来た」は、完了形。それは、未来における確かなことを言い表すために用いられる。「日」はヘブル語では複数形であるので、裁きは短期間に終るのでなく、長期間に及ぶことが示されている。

そして、その裁きの理由となる罪が、今また民の前に示される。「預言者は愚か者とされ、霊の人は狂う。」これは、ホセアが実際に体験した、民から受けた迫害の内容であった。不愉快な預言者の権威を崩すためにとられた手段は、使い古された安っぽいものであり、預言者を笑い者にし、気が狂ったとして、その言うことを真面目に聞く必要のないことにすることであった。サムエル記上10章5節以下に、恍惚状態になった預言者の群れが、独特な挙動をして、それを人々が怪しんで見下している光景が記されている。このような、恍惚的な熱狂的な行動を伴って預言する預言者は、ナービーと呼ばれるが、アモスやホセアはそのような預言者とは異なり、主の契約の伝統に立ち、主の霊に捉えられたものとして、主によって示される将来を告げる預言者、先見者(ホーゼー)に属していた。しかし、民は、アモスやホセアのようなホーゼーをナービーのように「預言者は愚か者で、霊の人は狂っている」といって批判していた。ホセアの結婚や、子どもの名前に預言的象徴的意味を与えた行動が、人々に奇異な感じを持たせることになったことは確かであるが、ホセアは決してナービー主義者ではなかった。

人々がホセアやアモスを攻撃したのは、別の理由からであった。それは、彼らの使信が、人々の良心のやましさを喚起したので、人々はそのような預言者を何とか沈黙させたいと考えたからであった。しかし、これこそが人間の罪の典型的な姿である。主の民としての良心を問う預言者の言葉を、神の意思と認めようとしない民は、審きを語る神の言葉とその告知に反抗し、それを伝える者を圧迫し迫害する。

民のそのような姿を、ホセアは「お前の不義は甚だしく、敵意が激しいので」と神への反抗であることを明らかにする。背信の民は、神の使者である預言者の言葉を神の言葉として聞けない、これが預言者の不可避な運命であった。それゆえ、神が容赦ない厳粛さをもって裁きを下し、ご自身とその使信の正しさを貫かれる時まで、ホセアは耐えねばならなかった。

しかし、ホセアは「預言者はわが神と共にある」と告げ、預言者が神によって任命された見張人であり、民のなすべくことを告げる任務を持つことを、はっきりと告げる。預言者の存在も言葉も、「わが神と共にある」という、自らの召命に対する確信なくして、預言者は迫害に耐え、委ねられた使信を語りきることはできない。ホセアにはその確信があった。だから語った。

8節に、ホセアを襲った迫害が明らかにされている。人々は、ホセアの家で彼を待ち伏せし、彼が行くところで、鳥に罠を仕掛けるようにして罠を仕掛けた。「神の家」を聖所の意味で言われているのか、8章1節の「主の家」、9章15節の「わたしの家」のように、神から賜ったイスラエルの地をさすのかはっきりしない。「聖所・神殿」の意味でとれば、そのような場所ということになるし、「イスラエルの地」という意味にとれば、どこででもということになる。その敵意は気の休まることがないほど「満たされている」と預言者は感じている。エレミヤも、その召命の時、その若い肩に負わせる重荷の大きさに耐えかねて、たじろぎを覚えた。ホセアが同じようなたじろぎを覚えても不思議ではない。神の証人、神の使者となるということは、それを、全世界に向けての神の戦い、として引き受けるということを覚悟することである。しかし、それを戦いきる力は、自らの信仰の力によるのでない。召し給う神から来る、召命の確かさ以外にない。その召命を信じる信仰以外にない。この点で、預言者の信仰は、主イエスの信仰と繋がっている。

イエスは、民の不信仰を「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」(マタイ23:37-38)と嘆き、「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マルコ13:13)という慰めを語っておられる。

しかし、ホセアはその言葉を知らない。彼の知っているのは、救済史における出来事だけである。そこから、自らの召しと委ねられた使信の確かさを確信する以外にない。だから、「ギブアの日のように、彼らの堕落は根深く…」と告げる。ホセアは、ここで民が向ける預言者への迫害を、士師記19-21章が伝えるギブアの恥ずべき行為と比較し、今審きに直面しているイスラエルの罪の歴史の関連の中で、その罪を総括的に述べる。ギブアの出来事とは、ベニヤミン人が、レビ人の側女を辱め、死にいたらしめたことである。彼女の主人であるレビ人は、彼女のからだを12に切り裂き、イスラエルの12部族に配ってその出来事を知らしめた。ベニヤミン族に対しては、その罪を犯した者を引渡すように要求したが、ベニヤミン人は反省せず、他の部族の正当な要求を拒んだ。そのため、他の部族は戦うために集結して、これを裁いた。ホセアは、いくら悔い改めを勧めても悔い改めようとしない民の強情な姿を前にし、ギブアの出来事を引き合いに出して、神の目にはどんな罪の行為も見過ごしにされることはない、と語る。義なる神は、咎を覚えてそれを追及されるということが、ホセアの耐え忍ぶ力の源泉であった。ホセアは、こう確信しているから、その危難に直面しても、神と争うことなく、服従して、その預言者として委ねられた仕事のために巻き込まれる緊張に耐えることを、学ぶ。

ホセアは、その召しを確信しつつ、「主は彼らの不義を心に留め、その罪を裁かれる」と語る。ホセアは神の愛を語る預言者である。しかし、神の愛は不義を曖昧にして示されるのでない。その罪を明らかにする。悔い改めを求める愛である。ホセアは、召しにおいて主の愛を覚えている。「わが民でない」(ロ・アンミ)を「わが民」(アンミ)に変えうる深い神の愛を知っている。その愛を知る者として、今、主の使いである預言者ホセアに対する憎しみは、すなわち神への敵意にほかならないことを明らかにし、だから神がその罪を裁かれる、と語ることよって、ホセアは民に悔い改めを求めているのである。

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