ホセア書講解

12.ホセア書5章3-7節『淫行の霊』

3-7無益な祭儀を行う民に向けられた審きの預言である。

この預言は民全体に向けられて語られている。預言の背後には、祭儀に潜む民の罪の問題がある。

神は、「わたしはエフライムを知り尽くしている」という言葉で、その審きの前に民を立たたす。この審きの前で人は、すべてを見極める神の透徹した眼差しから逃れることはできない。すべては、神の前では隠されず明らかにされる。旧約聖書においては、普通、「神に知られる」ことは、神の選びと、民に対する神の配慮を意味する。しかし、ここでは神から隠れようとする人間を、一度徹底的に審き、その後で神の園(パラダイス)に置こうとする、神の呼びかけの響きがある。

ここでイスラエルと併置されているエフライムは、北イスラエル最大の部族で、アッシリアから放逐されたイスラエルの残骸国家の名称として用いられている。風前の灯火と化したエフライムの主の民としてのあり方は、その領土以上に悲惨であった。祭儀上の形式的な熱心さは見られても、真の礼拝と呼ぶにはあまりにも「汚れており」、それは「淫行」と呼ばれるに値する非ヤーウェ礼拝的要素に潤色されていた。

それゆえ預言者は、罪の本質を根底から批判する。ホセアは、民に向かって彼ら自身の行いのゆえに、神に立ち帰ることができないような壁ができていることを示す。それは、悪行の報いであると告げられる。罪にふさわしい霊が、人間を捕らえていると告げられる。罪の霊に捕らえられた人間は、もはや「主を知りえない」存在と化している。それをホセアは、「淫行の霊」に囚われた人間として描く。この霊に捕らえられた人間は、罪に占領され、自らを自由にできず、神とその意思についての神聖な感受性を失い、罪を罪として認識し得ない霊的盲目性の中に置かれている。だから預言者は、民が、主の民としての本来のあり方・状態に、全く盲目となっている姿を悟らせ、罪を自分たちの中心に据えている、恐るべき内的崩壊の有様に対して目ざめさせねばならなかった。

しかし、民は、それには一向に無関心であった。むしろ民は、ヤロブアム二世の時代の、イスラエルの最後の栄光の時代の政治と文化の成果を誇り、そこに安住していた。ホセアは、そこにイスラエルが陥っていくに違いない、人間的な自負の傲慢さとその罪を認め、「イスラエルを罪に落とすのは自らの高慢だ」と告げる。(5節後段の「ユダも共につまずく」は、ユダ側の傍注)

このように、真の神の霊に導かれず、「淫行の霊」に支配され、歪んだ宗教性に支配されている人間は、罪のために自分の本質が内的に空虚になったことを糊塗しようとして、祭儀を営むことによって神に自らの敬虔さを証明できると信じ込んでいる。この時代の民が、ヤーウェ礼拝に取り入れた祭儀は、バアル宗教からの習慣であったが、それでもなお民は、ヤーウェをも礼拝していると信じていた。ホセアはこうした民の信仰を否定しないが、そんな方法で主を見出すことはできないと鋭く批判している。ここで「彼らは羊と牛を携えて主を尋ねるが見出すことはできない」といわれている。その祭儀方法自体は、律法に基づいているなら、「羊や牛」を犠牲にする祭儀全体が否定されたということはできない。罪によって失われている真の宗教性、その欠如の中で捧げられる、見かけ上の敬虔さ、取り引きとしての祭儀行為から、「神は離れておられる」というのである。ホセアにとって神の道というのは、神にまったく心を捧げることと、他の神々に心を奪われず、そのような祭儀を取り込まずに真の貞節を守ることであった。だから、どんなに盛大に祭儀がそこで営まれていても、神への内面的な忠節が欠如した信仰における礼拝は、空虚で、そのような礼拝の場に「主は離れ去られている」というのである。

ホセアは、最後に、民の礼拝行為そのものを「主を裏切る」行為として断罪している。それは、「異国の子らを産む」行為として厳しく断罪する。バアル祭祀からとったイスラエルの民間のヤーウェ宗教は、本来のヤーウェ宗教とは本質的に無縁のものとなっていた。そして、この叱責の言葉の後に、バアルへの堕落の原因となった、その農耕文化の終局を意味する恐るべき審きが告げられる。「新月祭」そのものは、イスラエルの中にもその伝統を持つものであった(歴代誌上23:31)。この祭りは太陰暦に従い、毎月の第一日を特別ないけにえ奉献で祝うものであった。「新月」は新生命の「しるし」としての意味があった。しかし、彼らが新月の時に異教的祭儀を行ったため、それは滅亡の「しるし」となることが告げられている。

ホセアは、神礼拝の内面性、宗教の内面的なあり方を問題にした、最初の預言者である。イザヤはホセアのこの思想を継承し、イザヤ書1章13-15節で、さらに発展させている。エレミヤは真実な心で主を求めることを語り(エレミヤ29:13-14)、新しい契約による心に記される割礼(同31:33)について語っている。パウロは、このホセアの思想を更に深化発展させている。背教的人間の歪んだ宗教性(ローマ1:18以下)が生み出す偶像崇拝の悲惨についてパウロは語っている。真の神礼拝の回復は、真の宗教性の回復なくしてあり得ない。それはホセアのいう「姦淫の霊」からの解放であるが、人間の問題としてその可能性は、「悔い改め」(ホセア5:15)である。しかし、「淫行の霊」の威力は「主を知りえない」状況に留めるゆえに、人間自身の力では不可能ということになる。パウロは、神の霊による「アッバ父よ」と呼ぶ回復について語る(ローマ8章)だけでなく、真の宗教性に目覚める新しい人としての歩みは、心の一新をもたらす「神のかたち」回復による(エフェソ4:17以下)ことを語っている。宗教「心」が問題でも、その心を回復させる神の聖霊が、「姦淫の霊」を打ち砕き、勝利しなければ、わたしたちの真の宗教的歩みが不可能であることを、パウロは告げる。ホセアは、そのパウロの深い洞察に、多大の影響を与えた預言者として特筆される。

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