ホセア書講解

9.ホセア書4章1-3節『主の告発-悔い改めへの招き』

1-3章までは、預言者ホセアの個人的体験に属する預言がまとめられていたが、4-14章は、内的にまとまりをもたない個々の預言が集められている。ホセアが、様々な機会に人々の前に現れて語った預言が、後に編集者の手によって、あるものは内容が似ているということでまとめられたり、あるものは順序もはっきりしないまま集められたりしている。それゆえ、これらの短い預言者の言葉が、どのような状況で語られたかという問題は、個々の言葉の内容から判断していかねばならない。

4章1-3節は、北王国の民全体に向けて語られている。4節以下は、内容的には似ているが、祭司に向けられて語られている。

「主の言葉を聞け」で始まる1-3節のこの単元は、北王国の民に向けられた主の告発の言葉が記されている。預言者ホセアは、「主の言葉を聞け」と呼びかけることによって、その告知が神の言葉であることを明らかにしている。ここでヤーウェは、民に対する告発者、審き手として示されている。「主の言葉を聞け」という言葉において表されているのは、直接的、外的、感覚的に聞くということではない。啓示を受け取るという行為は、内的な知覚・認識である。

「主はこの国の住民を告発される」という啓示の言葉が示される。神は、イスラエルの民に訴訟を起こされる。ヤーウェは、イスラエルに対して、唯一の神として自らの手で告訴と判決を同時に行われる。それを行う正当な根拠は、神とイスラエルの間の契約にある。ヤーウェは、契約においてイスラエルの神となり、命令し、責任を問う権利を持っておられる。そして、民は、その神に対して自らの行為と態度について責任を持っている。これが神と民との契約の関係である。その契約の設定にあたって示された神の恵みが、神の命令に特別な重みを与えている。その恵み故に、命令に反する行為と、態度に対する叱責の言葉と罰を、イスラエルは、ぎりぎりのところで避けることのできないものであることが明らかにされている。契約は、イスラエルの罪によって無効となったのではなく、その罪に対する審きが行われていること自体、今なお契約が有効であることを示している。神の告発と審きは、契約に基づいてなされる。ここに、イスラエルの悔い改めに、希望があることが示されている。

預言者の罪の審き特徴は、第一に個々の罪を一つ一つ数え上げ決議論的に行うのではなく、神の原則的・基本的な命令を先ず上げることにある。第二に外面的な行為ではなく、あらゆる行為の根底にある意識を、その命令の本質から問う点にある。ホセアは、その罪の全体、その内奥にある核心にまで迫り問う。ホセアにとって罪とは、個々の罪の総計によって判断すべきことではなく、神の基本命令に背反している、誤った人間存在のことにほかならない。

ホセアは、「この国には、誠実さも慈しみも神を知ることもない」と語る。ホセアはこれらの言葉によって、民に神の恵みとその命令との内的な対応について注目させている。ホセアが第一に挙げている「誠実さ」(エメト)と「慈しみ」(ヘセド)とは、2章21-22節で、とりわけ神の賜物としての新たな契約について約束されていたものにほかならない。神は、その契約において、命ずるよりも先ず与えておられる。命令に恩恵が先立っているのである。神が命じられるのは、神の固有の本質(恩恵)に応じた、民にふさわしい生活である。

エメト(誠実、真実、確かさ)とヘセド(愛、これは契約によって生じた絆の概念であって、永久に変わらない心づかい、いかなる困難も克服し、相手の一時的な気まぐれにくじけることのない熱心さの概念を内包する。ヤーウェのイスラエルへの愛をさす時によく用いられるが、ここでは共同体に対する内面的義務命令として語られている)とは、人間の共同生活の二つの基本的な柱として、ここでは神に向かう面と同胞に向かう面を持っているものとして語られている。

ホセアは、「この国には、誠実さも慈しみも神を知ることもない」と語るが、神を知るのは、契約における神のヘセドとエメトを通してである。この二つが人間を真の宗教性に目覚めさせ、宗教の全領域を覆う。だから「神を知る」という行為は、神や神的な事柄についての理論的な知識以上に、啓示を通してヤーウェの本質と意思(それがヘセドとエメトにおいて表されている)を知った者が、神との実践的な交わりにおいて心底から神を喜び崇め、信仰と愛に生き、それを神への服従の中に、また兄弟に対する応答の中に具現すべきものとして捉えられている。

神の愛と隣人愛は、旧約聖書の信仰においても、一つの事柄の両面としてこのように表明されている。社会倫理は、神と人間にある本質的な関係と有機的に結びついており、そのエートスに深い宗教的内面性を付与している。ここにホセアの根源的な宗教批判がある。即ち、バアル宗教のように、自分の神を物質的な必要と享受を保証するものとしか見ていない宗教はすべて、実は宗教ではない!!似非宗教は、人間の必要・願望の投影でしかない神をカウンターアイドル(偶像)として要請する(フォイエルバッハ)。そこには、対神関係における真の責任意識が欠如しているので、対人関係に対する責任意識も芽生えることがない。そこにあるのは、損得の利害関係だけである。その意味での倫理は、或程度形成される可能性があるが、それ以上のものは期待できない。

しかし、真の宗教は、啓示を通して示された神の意志と本質を知り、そこから自己のあり方と対人関係のあり方を正しく捉え、実践的にその本来の在り方を生きることを求める。そのようにして、言葉の真実の意味で「神を知る」者としての生を全うする。ホセアがここで示した倫理観は、この世のどの倫理観よりも高く、自由で、かつ真実ある。

このような宗教的・倫理的責任を欠如していたことを、イスラエルはその行為によって示された。ホセアは、簡潔な罪のリストを挙げているが、それは、1節で述べた罪の原則的な叱責の言葉との内的な関係を示すために限られたものが取り上げられているに過ぎない。しかし、ホセアの意図は、これを聞く民が、罪に対する原則的な理解をし、神に立ち帰ることにあるので、すべてを記す必要はなかった。「呪い」はエメト(真実、誠実)の義務に違反し、その他の罪はヘセド(兄弟愛)の命令に違反する、ものとして示されている。十戒は、契約の祭りのときに、神の意志の告知として、イスラエルではヤーウェ礼拝において確固とした位置を占めていた。ホセアは、それを拠り所にイスラエルの罪を糾弾する。その社会的不道徳と不正を、ヤーウェに対する背信の罪として告発するのである。

3節において預言者は、自然世界の破滅を神の審判として語っている。しかし、ホセアが眼中に置いていることは、自然世界の破滅ではない。民の罪と自然世界との間にある、内的な諸関連である。この世界の一番外側に、人間の堕落が取り巻いている。土地とその住民、そして自然の全体が、その罪の堕落の影響を受けて、滅びつつその中に引き入れられている。「神のかたち」を与えられた創造の冠としての人間が、神の契約の交わりの中に入れられ、「極めて良かった」と神が満足された世界の外側に立っている。人間の契約に対する責任は、全被造物の統一を包含する形で問われている。これが旧約聖書の神観であり、人間観である。

人間の罪は、その自然と歴史に影響を及ぼす。それは旧約聖書の神観と人間観から来る必然的な帰結である。2章10節で明らかにされているように、穀物の実りや鉱物資源などは、ヤーウェが与える恵みである。ヤーウェに信頼し、そのエメトとヘセドを人に対して果たさない者を、ヤーウェは自然世界の破滅によって裁く。それを、神の道徳的厳粛さとその命令から、人間と自然の関係を明らかにするこの視点は、バアル宗教の感覚的・物質的恵みの享受の要請からは出て来ない。自然そのものが神であるバアルの神観からは、自然に支配され呪われている人間が、自然をなだめる行為だけが考案され、それを超える神との人格的・倫理的関係も、その神の意志に基づく人間関係のあり方を問う生き方も生まれようがない。

しかし、自然世界の破滅の現実を、ホセアは民の罪に原因があることを見る。それは、神の審判のしるしとしての意味を持つ。愚かな人間は、罪を指摘されてもその結果の影響が見られない間、悔い改めようとしない。しかし、しるしとしてその世界の破滅が語られているのを聞いた民は、それが罪に対する神の審判であったことに気づかされる。裁かれることは、民にとって不幸であるけれども、一度徹底的に裁かれることは、神の契約に対する不変のエメトとヘセドによる審きであるゆえに、そこに、悔い改めたものに慰めと希望が示されている。それゆえこの審きの主の告発は、イスラエルに対する真の悔い改めへの招きであることを見落としてはならない。

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