ハバクク書講解

3.ハバクク書2章1-4節『義人は信仰によって生きる』

この箇所は、ハバクク書のクライマックスといわれているところです。ハバククは自らの祈りに主が何と答えられるか見届けようと、見張所に立って、目を凝らしじっと静かに待っています。祈り待つハバククに与えられた主の幻と答えは、実に慰めと励ましに満ちたものです。また、ハバククがあのヨシュア王の死によって挫折した改革の道に対する理論的な答えを与えたいと願いつつ与えられなかった、その答えを、与えられるものとなりました。その答えとは、「しかし、神に従うものは信仰によって生きる」(4節)というものです。ハバククは自らの体験を通して、民にこの信仰の道に向かって真っ直ぐに進むべきことを告げる言葉をここで得ました。その意味で、この箇所は、やはりこの書の頂点を構成しています。

さて、ハバククの苦悩、嘆きが、1章2-4節に続き、1章12-17節に繰り返されています。その嘆きにおいて、ハバククは、現在、自分の同胞の民が苦しんでいることが、我々を裁くために主によって立てられたカルデア人(バビロン)によるものであることを認めることができました。その審きの中でも、審きのイニシアチブを取っておられる主を「岩なる神」と全幅の信頼を寄せて祈ることができました。

しかし、それにしても、主によって立てられたとは言え、カルデア人のしていることは、主の委託を超えた、悪としか言いようがない。主の前に敬虔に正しく生きている者まで、その生命を脅かされ、苦しめられている現状が長く続くことは、主の聖性に反し、納得できないことを1章13、17節において表明しています。
「だからといって、彼らは絶えず容赦なく/諸国民を殺すために/剣を抜いてもよいのでしょうか。」(1:17)と、ハバククは主に問い、その答えを待つのです。

ハバククは、その答えを聞きたいと思い、「わたしは歩哨の部署につき/砦の上に立って見張り/神がわたしに何を語り/わたしの訴えに何と答えられるかを見よう」(1節)といって、主なる神の答えを待ちました。ハバククが実際、歩哨の部署についたのかどうかは不明です。しかし、いずれにせよ、ハバククはその答えを得るにふさわしい準備をして、その答えを待ったのであります。

わたしたちの祈りにおいてしばしば欠けているのは、その答えを期待しながら、その答えをいただくにふさわしい準備、姿勢ができていないことです。しかし、ハバククは、その答えを頂けるにふさわしい準備をして待ちました。彼が期待したのは、現状に対する単なる改善や気休めでありません。その希望なき現状を悲観することのない根本的な解決を与えられる、主の答えであります。それをハバククは「神がわたしに何を語り」(2節)という言葉で表現しています。「神が…語り」ということが何より重要であるとハバククは確信していたからであります。ハバククが欲したのは、主の啓示であります。主の言葉を期待したのであります。この現状に対する主の本当の御旨とその答えであります。そして、それは単なる主の答えとしてではなく、「わたしの訴えに何と答えられるかを見よう」と、ハバククはその答えを待ったのであります。

それは、敗北続きの戦いの中で、主の戦士としてなおも主にある勝利を得ようとしている信仰者としての待ち望みの姿勢でありました。事態を主の言葉によって見極め、主にある勝利を掌中に収めたいという祈りから出る、待ち望みの姿勢でありました。

このように祈り待つハバククに主からの答えがありました。主はハバククに一つの幻を示そうとしておられます。主はその「幻」を書き記すようハバククに命じておられます。それは、人が走りながらでもすばやく読めるように、板の上にはっきりと書き記すよう命じられています。かつて預言者イザヤもその預言を書き記すために同じような命令を受けています(イザヤ書8章1節)。

「走りながら」という言葉は、預言者は伝令と共に「走る」者であることを示す言葉であると解釈されています。それは、預言者の主からの託宣(メッセージ)を伝え広める活動と深い関係があるといわれています。クムラン写本では、預言者は神の言葉を伝えるための「走る者」という解釈がつけられています。しかし、ここでの言葉は、その様な意味を否定するものではありませんが、「走りながらでも」は、「容易に読める」誰が読んでも「はっきりとそれと分かる」という意味です。ハバククが書き記せと命じられた「幻」は、書き記されることによって、神が公然と支配なさるという神の証言が信頼するに足ることへの人々の信頼を強めることが同時に意図されていました。

そして、この幻には、その実現に期限が置かれていることが3節のはじめに明らかにされています。「定められた時のために/もう一つの幻があるからだ」という言葉は、幻(啓示)が与えられているにもかかわらず、その実現の遅さの故に、その実現そのものが果たしてあるのだろうかとの疑問視する声が起こり得ます。人間は幻を示されると直ぐその答えを知りたい、知れるのが当然のように思います。しかし、主の答えは機が熟すまで遅延されることがしばしば起こるのであります。それは、言い換えれば、それを受領するにふさわしい時まで、主が忍耐して待っておられる時でもあります。そのような主の忍耐の時を、人間の方が勘違いし、自分たちが忍耐して待っていると考え勝ちです。幻の内容を形成している出来事が確実に「熟して」来るのを主は待っておられるのであります。

その時は、人の目には遅く感じられます。しかし、「それは終わりの時に向かって急ぐ」といわれています。「終わりの時に向かって」確実に、主の中で「急ぎ」準備され、実現していっている事柄であります。すべてが終わりに向かって展開しているのであります。そしてそれは、決して「人を欺くことはない」ものであり、「たとえ、遅くなっても」必ず実現するものであります。だから、忍耐深く「待つ」ことが必要であります。「たとえ、遅くなっても、待っておれ」という主の言葉を深く受け止めて、委ね待つ信仰が求められているのであります。

この場合の「終わり」という言葉には二つの意味があります。第一に、現在の困窮が終わるということであります。しかし、それだけではない、もう一つの意味があります。それは、この幻が必ず実現するということによってもたらされる「終わり」があるということであります。だから、しばらくは待たなければならないにしても、決して疑ったり、落胆したり、信仰をぐらつかせたりすべきではなく、「待ち望む」ことが大切であり、無条件に自己を主に委ねることがふさわしいということであります。

主が「幻を書き記せ」といいわれるのは、ご自身の言葉に言質を与え、預言者が刻み込んだ言葉を保証するためであります。自分の言質に自信のない人は、自らが語る言葉が記録されることを嫌がります。しかし、主はご自身の啓示の言葉を刻み込まれることを望まれるのであります。ご自身が約束したことを人が覚え、信頼し、その実現を待ち望み、ご自分に委ねて生きることを求められるのです。それは、ご自分の言葉に言質を与え、その書き込まれた言葉を、自ら保証されるためであります。決して取り消されることのない約束として、そして、その約束を成就されるのであります。

それでは「書き記せ」といわれた主の幻とは、一体どんなものだったのでしょう。ここにはその具体的内容が記されていませんから、ハバクク書全体から推論するほかありません。3章に記されている「ハバククの祈り」は、礼拝に用いられるために詩編の形で、様式が整えられていますが、おそらくこの祈りの中にある事実が幻として示されたと推測できるのではないかという注解者がいますが、その推測がやはり一番妥当だと思われます。

しかし、このハバクク書の元来の形において、この預言は、3節から4節に最初から続いていたものと思われます。両節の間に、3章の「ハバククの祈り」の事柄が書き記されていた可能性はありません。

4節は2-3節で語られた幻の確信を示す言葉としてここに記されているのであります。ここには思いあがっている「高慢な者」と神に従う「正しき者(義人)」とが対置されています。新共同訳は「正しい者」を「神に従う人」と意訳していますが、この意訳は間違いではないにしても、この文脈ではやはり「正しい者」あるいは「義人」とすべきです。なぜなら、その後で「神に従う」と同じ意味を持つ「信仰」という語が続くので適切ではありません。

「高慢な者」とは、「自分の力を神」(1:11)とする者であり、世界の審判者である神を畏れず、人を人とも思わず思いあがって人に対して暴虐行為を繰り返す者のことです。この場合は、疑いもなく、敵対する世界強国バビロン(カルデア人)のことが考えられています。

そして、神は「彼の心は正しくない」といわれます。この言葉によって、神の判決が述べられています。主の前に正しい心で待つ者は、未だに神による刑の執行が行われていなくても、それは猶予されているだけで必ずなされるものであるので、ひたすら待つことが肝要であることが示されているのであります。

そして、この場合の「正しき者(義人)」とは、直接的には、ユダ(南王国)だけが念頭に置かれています。その意味は、他の国民は死ななければならないけれども、彼はその信義(信仰)の故に「生きる」という保証が与えられています。パウロはローマ書1章17節とガラテヤ書3章11節で、これを個人の信のあり方の問題として解釈しています。しかし、ここでは義人は「民」のことであり、「生きる」のは、信仰に生きる民のことが、終わりの時に向かって、神の救済における政治的生存のことが述べられています。

しかし、パウロがこの言葉を個人の信仰のあり方へと深化させたその解釈への道筋を、ハバククも与えています。ハバククが待ち望んだのは、その苦悩する現状を打開する神の言葉の啓示です。それを信頼して待ち望むことを、神への信義の第一としました。そしてそれはまた、神から求められた第一の問題でもありました。

ハバククは、「しかし、神に従う人(義人)は信仰によって生きる」という言葉を示されることによって、揺るがずに神と神の言葉に一層固着すべきことを学びます。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」(ヘブル11:1)であることを、ハバククは学びます。そして、その信仰に達して、ハバククの嘆きは静まります。ハバククは、ヨシヤ王の改革事業の挫折と外国勢力への再度の従属化ののち改めて吹き出した神義論の問題に対して、自分の民に対する理論的回答を与えることがこれまでできませんでした。しかし、彼は困窮の現実的解決を、この直接的な神体験の中で与えられました。そして、ハバククはその解決の全権を委ねられて民に提示することができました。即ち、神を信ぜよ。神は世界史をあらゆる謎を通してその目標に向かって導き給う方であり、悪人を滅ぼし義人を生かす方なのだ、と語ることができました。彼は、この書を書き記すことによって、そのことを、すべての人に宣べ伝えているのであります。

ハバククの信仰は、「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イザヤ書40:8)という信仰に繋がっており、また、ヨハネ福音書11章25節-26節の「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」という、主イエスの言葉にも繋がっていくのであります。長く続く苦しみ、ただ死に向かう日々をも耐えねばならない苦悩の中にある者にも、望みのあることを、これらの言葉は示しているのであります。「神に従う者(義人)は信仰によって生きる」のであり、信仰によって神に生かされるのであります。

旧約聖書講解