エゼキエル書講解

32.エゼキエル書34章23-31節『平和の契約』

エゼキエルは、1―16節において、悪しき牧者となった国の支配者たちを滅ぼし、主ご自身が真の牧者となって、散された羊を捜し、救い出し、正義と公平をもって、ご自分の民を養われることを明らかにしました。そのメッセージは、国が破れたのも、エルサレムの神殿が破壊されたのも、主の審きによるものであることを一方で明らかにしつつ、他方、その破滅から救い出すのは真の牧者として立つ主なる神の恵みによることを明らかにしています。この預言を取り次ぐエゼキエルは、バビロンのほとり、ニップルの地にあって、主が正しい牧者としてその救いを実現されることを明らかにし、捕囚の民を励ましています。しかしその救いの広がりは、エルサレムにも、諸国に散らされた民にも、つまりイスラエル全体に向けられたものです。

22,23節は捕囚時代以前の預言者のメシア待望を取り上げ、僕ダビデを牧者として任命することを告げていますが、「僕ダビデ」が誰であるか、注解者の意見は分かれています。「僕」(エベド)は、王の大臣であり、信頼される助言者を指して言われますが、宗教的な面では主の助言者のうち特に優れた地位を指します。モーセと同様ダビデも、その様な意味でエベドと呼ばれました。サムエル記下7章のナタンの預言以来、ダビデ王朝においてはダビデ家の王はその即位に際し常に救いをもたらす王として歓迎され、メシアの性格を備えたものと見なされていました。

しかしその後の王家の歴史は、その期待を裏切るものでありました。ここでは、ダビデの再来を告げることが目的とされていません。だから、政治的権力の座についてその王的支配を行使する新しいダビデの姿を示されていません。

来るべきダビデは、主が裁きを行われ、将来を失われた楽園を回復させそこに復帰させる新しい時代を実現する平和の王として仕える「僕」として語られています。僕は公平と正義を確立し維持するものであり、主なる神と密接に結びつき、この僕において主が働いておられるのを見ることができ、その救いの近さを民に確信させることが明らかにされています。

この僕を通して自らのつとめを行使されるということにおいて表現されているのは、神の人間性であり、ご自分の民との親密な人格的交わりに向かう神の意思です。人間を神にかたどった「似像」として語る創世記1章26,27節を想起するなら、僕ダビデは完全に映し出された神の僕と見るべきです。

ここで新たな牧者が任命されたことは、僕が神の支配の全権を委ねられた代理として行動するということが意味されています。

25―29節に上げられている祝福は、イザヤ書11章6ー8節に描かれている平和と密接に結びついています。この契約において、人間は、一方的に神の恩恵を受ける者として扱われています。

25節後半―28節は、契約締結から生じる祝福として、国の中に安全に住むこと、その驚くべき豊かな収穫について語っています。民は、軛の棒を折って圧政者の権力から解放されて、自由の身となることによってもたらされることを明らかにしています。それは、イザヤにおいて既に明らかにされていたことであります。以下のイザヤ書32章15-18節の言葉がそれです。

ついに、我々の上に
霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり
園は森と見なされる。
そのとき、荒れ野に公平が宿り
園に正義が住まう。
正義が造り出すものは平和であり
正義が生み出すものは
とこしえに安らかな信頼である。
わが民は平和の住みか、安らかな宿
憂いなき休息の場所に住まう。

ここには、イザヤが描いた公平と正義による平和な救いが、実に慰めに満ちた言葉で語られています。イザヤ書51章3節には、また、次のように歌われています。

主はシオンを慰め
そのすべての廃虚を慰め
荒れ野をエデンの園とし
荒れ地を主の園とされる。
そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く。

ここに記される豊かな祝福は、神と民との契約が再び確立されたことを認識するところで絶頂に達しています。前621年、神殿から発見された律法の書に基づいて行われた宗教改革は、前609年、メギドの戦いでヨシヤ王が戦死したことによって挫折してしまいました。その後、王たちは牧者のつとめを果たさず、群れを養わず、国を滅ぼす道を歩み続けました。エゼキエルは、前597年、第1回バビロン捕囚にされた一員として、その悲惨な現実を見てきました。前587年のエルサレムの破壊とユダ王国の滅亡(第2回捕囚)、前583年の第3回捕囚までの歴史のすべてを見てきました。その悲惨な歴史の原因を、国の指導者として立てられた王とその側近たちが牧者としての務めを果たさなかったことにあることを明らかにした上で(1-16節)、そして今、主なる神が実現されようとしている新しい救い、実に慰めに満ちた救いを明らかにしているのであります。

この段落で示された主なる神による救いは、捕囚の民だけに向けられた約束ではありません。エルサレムにいる貧しくされた人々も、諸国に散った人々も、イスラエルの真の牧者となられた主が、二度と諸国の略奪を遭うことのないよう、「軛の棒を折り」、奴隷にした者の手から救い出し、「わが民イスラエルの家であることを知るようになる」(30節)ように、エデンの園の回復を彷彿させる「野の木は実を結び、地は産物を生み出す」地に安らかに住み、彼らを恐れさせるものをない平和が実現する、という慰めに満ちた救いが明らかにされているのであります。

それはまたヨハネ黙示録21,22章にしるされている新し天と地を彷彿させる救いでもあります。主の言葉に立ち帰り、苦難の中で、主の導きを求める者に与えられる豊かな救いを、主はこのように終末的救いとして示されます。苦難の中で、このような導きを与えてくださる主を信じる者に、神は、「わが民イスラエルの家であることを知る」者として、その約束する救いに与らせてくださいます。

旧約聖書講解