エゼキエル書講解

30.エゼキエル書33章10-11節『立ち帰って生きよ』

エゼキエルは、捕囚の民に向かって、祖国イスラエルの滅亡、都エルサレムと神殿が破壊される大破局の日(前587年)まで、主によって立てられた預言者、主なるヤハウエから「人の子」(エゼキエルのこと)と呼ばれる者の語る真実の預言者として、悔い改めを求める言葉を語りました。そして、悔い改めを求める勧告を無視し続けるならば、「目の喜びを、一撃をもって奪う」(24:16)という神の審きを伝え続けてきました。その言葉の信実を明らかにするために、妻の死に際し、嘆くことも、涙を流すことも、死者の葬りのために喪に服していることを表す一切の行為を禁じられました。その神の意思にエゼキエルは従い、その言葉通りに実行しました。そこに、都エルサレムの滅亡、神殿の破壊、祖国の滅亡の日に示すべき主の民としての神信仰のあり方を示す《しるし》としての意味をもっていました。このように、エゼキエルは、妻の死の中で、捕囚の地にある者と連帯して生きる預言者として、言葉に言いつくせない破局の悲しみとその深い苦悩を心静かに受け入れました。

エゼキエルは、その大破局の日まで、悔い改めない民に破局の審きを明らかにする預言者として、神の口としての役割を果たす者でありました。

しかし、都エルサレムの滅亡以後は、一転して、神の慰め、悔い改めるものに現わされる神の救いを告げる預言者として、黙することなく語り続けることを、主から求められました(24:25ー27)。

33章から、主の見張り人としてのエゼキエルの新しい働きの姿、その転換点以後の慰めの預言者としての姿が明らかにされています。

33章10―20節は、そのエゼキエルの預言者としての新たな使命をはっきりと示しています。エルサレムの滅亡という大破局の知らせを聞いた捕囚の民は、深い絶望の淵に呆然として立っていました。それは、まるで体が化膿性の傷に覆われて、助かる見込みのない死に至る体験のただなかにある者のような姿が、捕囚の民が過ごすケバル川のほとり、ニップルのあちこちに見られました。

しかし、その打撃を味わって、これまでかたくなにして、神に対して罪を犯してきたことの重大さに気づかされ、背神の罪から目覚める機会が訪れました。10節のエゼキエルに告げられた神の言葉が、捕囚の民がどのように嘆いていたか、彼らの現実を明らかにしています。

「我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか」と嘆き悲しむ捕囚の民の声が神のもとに届いていました。死に向かう絶望者の群れと化した捕囚の民の共同体に、預言者が語るべき言葉として示されたのは、「わたしは生きている」というメッセージです。その希望なき現実の中にも、神は生きて働き、救いへの転換を用意する神として不変におられることを明らかにされるのです。

そして、さらに大きな慰めの意思を、主は明らかにされます。

「わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(11節)

捕囚の民にとって、最後の望みは、都エルサレムがバビロンの攻撃から免れて残り、自分たちが祖国に帰ることができるということでありました。しかし、都の滅亡は、その望みが断たれたことを示すものでありました。捕囚の民には、もはや現状を打開する展望が全くないことを認識し、その現実を受け入れなければならなかったのです。彼らを待ち受けていたのは、彼らが汚れた地と考えるその地での死だけが待ち受けている、という現実でありました。国家と家族、あのエルサレム神殿での神礼拝と未来に対する希望は、エルサレムの廃墟のもとに埋められているという深い絶望に心は満たされていました。その絶望から出る彼らの心の叫びが、「どうして生きることができようか」というものでした。

11節のこの神の言葉は、そのどん底に佇(たたず)む者に向けられた新たな生の希望に生きるように招くものです。人を死に追いやる現実は、人間の罪によってもたらされた不可避なものとして、神の契約の中で理解することが大切です(創世記2章17節)。その罪の中を歩み、死と滅びしかない希望なき現実に佇む者に、「立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から」と主は呼びかけるのです。誰に立ち帰るのか、それは、主なる神のもとにです。悔い改めとは、単に自分たちの歩みが誤っていたという悔恨、反省から出る、自己による改革への方向転換を表すものではありません。その思いがどんなに清いものに見えても、人に命を与えその命を奪うことのできる神に、命の主である神に立ち帰るのでなければ、希望への真の転換は期待できません。

しかし、神は、死の絶望しかないこの捕囚の民に、「人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」との約束を与えておられます。わたしに「立ち帰れ、立ち帰れ」との招きを与えておられるのです。「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」と神は呼びかけられるのです。この呼びかけをされる神は、あの帰ってきた息子を受け入れる父親のように(ルカ15:11~24)、ご自分のところに立ち帰るものを受け入れられるのです。神はこの罪の赦しと希望の言葉を与えて、悔い改めを求められるのです。それは、わたしたちの現実にも働く神の慰めの言葉として届けられています。

旧約聖書講解