エゼキエル書講解

26.エゼキエル書22章17-22節『神の溶鉱炉』

エゼキエルは、主に立ち帰って悔い改めることのないユダの都エルサレムに下される主の言葉(22章1-5節)を聞きました。それは、自ら招いた罪の結果として臨む主の審判であり、その悲惨な最後は、「流血の都」(1節)として描写されています。エルサレムは、「自らの真ん中に血を流し、自分の時を来させようとする都よ。」(3節)と呼びかけられています。「こうしてお前は自分の日を近づかせ、自分の年を来させる。」(4節)という決定的な主の裁きの言葉を聞きました。

17-18節は、「イスラエルの家」(18節)に下される主の審判がどれほど徹底した厳しいものであるかを、「金(かな)滓(かす)」の譬えで告げています。「イスラエルの家」という呼称は、神の民とされたものに与えられた尊称であって、ここではユダについて用いられています。その尊称を用いることによって、神の家としての使命と共に、その完全な背きの罪が明示されています。神の目には金滓となってしまった姿しかありません。金滓は、銀を溶かす時に用いる卑金属で、溶けた後取り除くものを指しますが、一酸化亜鉛をもう一度溶かして残った銀を取りだすことがあります。イザヤ書1章22節では、その様な意味で語られています。それは、溶けた銀を鉛の混ざりものから分離し不純なものを取り除くための大切な作業です。それが、

わたしは手を翻し
灰汁をもってお前の滓を溶かし
不純なものをことごとく取り去る。(イザヤ1:26)

ための主の業であるなら、その裁きには大いなる希望が残ります。

しかし、ここでは、「彼らは炉の中で、みな銀、銅、錫、鉛などであった。ところが彼らは金滓となってしまった。」(18節)と述べられていますので、本来、諸国民の間で貴金属として輝くはずであった神の民は、溶炉に当たって無価値な鉱物でしかないものとなってしまって、捨てるしかないことが明らかにされています。それは、「わたしはお前を諸国民の嘲りの的とし、すべ他の国々の笑いものとする。」(22:4)という先の預言の成就の主の言葉として、その民に向けて宣告されているのであります。

19-22節は、神の溶鉱炉の中で起こることを神の最後の審判として告げています。主が金滓を積み上げ、その下で炉の火が点じられるこの描写は、イザヤの言葉を想起させるものです。イザヤは、主なる神を溶鉱者とし、その裁きを溶鉱の火としています(イザヤ1:21以下)。しかし、そこでは鉛の混ざりものから銀を取りだすことが目的とされていますが、エゼキエルはそのような結果を全く期待していません。エレミヤは、自分に溶鉱者としての役割が託されているとして、自分の溶鉱は無益で銀と鉛の分離は不成功であったこと、それゆえ神から退けられたことを、エレミヤ書6章27-30節で以下のように明らかにしています。

わたしはあなたをわが民の中に
金を試す者として立てた。
彼らの道を試し、知るがよい。
彼らは皆、道を外れ、中傷して歩く。
彼らは皆、青銅や鉄の滓
罠を仕掛けて人を滅ぼす者だ。
鉛はふいごで起こした火に溶ける。
彼らも火で試されたが、空しかった。
彼らの悪は取り除かれることがなかった。
捨てられた銀の滓、と彼らは呼ばれる。
主が彼らを捨てられたからだ。

エゼキエルはこの考えをさらに徹底して、イスラエルの家の者はすべて役に立たない金滓である、と神の言葉を告げています。だから、彼らが神の溶鉱炉の中に投げ込まれて銀のように溶かされても、何一つ価値のあるものは出てこない。むしろこの金属が全く無用であることを示し、いかなる意味でも彼らを救うことを拒むことを示される神の意思は当然であることを明らかにします。神の怒りの炎は一抹の希望をも許さないのです。

神の審きとしてのエルサレムへの攻撃は、信仰なきことをあらわにした民に対する神の下した最終的な容赦のない決定を意味します。主がこれまで進めて来られた溶鉱による金滓をことごとく集めそれを大溶鉱炉であるエルサレムの上に積み上げて、その下に巨大な火が点じられる時、それはまさに主なる神の怒りの審判をあらわすしるしに他なりません。
それが、「お前たちがみな金滓となったので、わたしはお前たちをエルサレムの真ん中に集める。銀、銅、鉄、鉛、錫が炉の中に集められ、火を吹きつけて溶かされるように、わたしも怒りと憤りをもってお前たちを集め、火を吹きつけて溶かす。わたしがお前たちを集め、わたしの怒りの火を吹きつけると、お前たちはその中で溶ける。銀が炉の中で溶けるように、お前たちもその中で溶ける。」(19-21節)という言葉において語られていることの意味です。

それは、神の義と聖をいつまでもないがしろにされるのを終わらせるものでありました。町の外で働く農民たちは、押し寄せるバビロンの派遣部隊から逃れようと堅固な街の中に保護を求めてエルサレムの町に流れ込んでくるが、それは、裁き手となられた主なる神が先頭に立って行われる行為の準備でしかないことが、「わたしはお前たちをエルサレムの真ん中に集める。」という言葉において、すさまじく描かれています。この言葉は、まさしくバビロンによるエルサレム包囲の直前において語られています。ここには、町と地方の都市を一緒にして「イスラエルの家」全体に下される神の審きの現実があらわにされています。真っ暗な絶望状態の中から一条の光を見出そうとして語られるイザヤのような預言(イザヤ書1章25―27節)は、もはやここには語られていません。

「わたしがお前たちを集め、わたしの怒りの火を吹きつけると、お前たちはその中で溶ける。銀が炉の中で溶けるように、お前たちもその中で溶ける。そのとき、お前たちは主なるわたしが、憤りをお前たちの上に注いだことを知るようになる。」(21,22節)という言葉には、何の光も見出せない、審きしか語られていません。この裁きの座以外に残された立場がないものが聞かなければならないのは、その裁きを真剣に受け入れることです。

旧約聖書講解