エゼキエル書講解

19.エゼキエル書19章1-14節『君候たちへの哀歌』

19章の哀歌は、17章と同じく韻律形式で記されています。預言者は、死によって完成される神の審きによる警告、訓戒を明らかにしています。それは、神がその敵に打ち勝たれた勝利の表現として歌われています。エゼキエルは、ユダの王たちへの哀歌を、ダビデ王家への審きの宣告として歌っています。

1-9節において譬えられている「二頭の若獅子」とは、ユダの二人の王のことです。最初の述べられている子獅子とは、エジプトのファラオ・ネコとのメギドの戦いで戦死したヨシヤの後継者として、民によって王位につけられたヨアハズのことです(列王下23:29-33)。彼は兄ヨヤキムを無視して王位につけられました。それは、ヨシヤの宗教改革を支持するグル-プの人々が、彼の父ヨシヤの独立政策と考えを異にするヨヤキムではなく、彼こそが王位を継承すべきと考えて行ったことです。しかし、エジプト王ネコは、ヨアハズを拘禁し、エジプトへ捕虜として送り、ヨヤキムを従順な従臣として、彼に代えました(4節、列王下23:33,34)。

5-9節で述べられている若獅子とは誰の事か。ヨヤキン(列王下24:15)かそれともゼデキヤ(列王下25:7)か、注解者の間で議論のあるところです。17章では、ダビデ王の正式の代表者としてヨヤキンを優先させて論じていますが、その後継者として立ったゼデキヤは王家の血筋から言えば傍系に属する人物でありました。ここで厳しく批判的に二番目の若獅子として描写されている人物とは、ゼデキヤ以外に考えられません。11年にわたる彼の統治(列王下24:18)は、荒廃に終わりました。彼は指導力に欠ける人物で、その大臣たちの意のままになる道具に過ぎず、その政治は安定と信頼を欠き、彼の統治下のユダは、しばしば平和を脅かされていました。彼はエレミヤの警告を無視して(エレミヤ34,37,38章)、苦しむ民に向かって権力者として振る舞い、その圧政を止めなませんでした。

このヨアハズとゼデキヤの実母は、ヨシヤの妻ハムタルで、ユダの太后母として宮廷で力を持ち、ヨシヤの死後、息子たちの即位に大きな力をふるった、と考えられています。ユダの最後の運命に、この二人の王は、恐るべきヤハウエの裁きとして関わることになります。

ゼデキヤの捕囚としての連行は、ここでは既に起こった歴史の出来事としてではなく、預言者の哀歌に間近に起こることとして歌われています(14節)。

5-9節は、ゼデキヤと彼に最も近い人々への警告であり、それはエレミヤが度々繰り返し語ってきたことでもあります。そして兄ヨアハズの運命を指している点は、王家に対するヤハウエの恐るべき審きの意志と、これを避けようとする太后母の努力が徒労に終わったことを示しています(5節)。

エレミヤは、権力を頼りに私利私欲に走る王国の歩みに対して、主が好意を抱いておられないことを明らかにしていました(エレミヤ22:13-17)。異邦人をまねたこのような王国は、ユダに対する神の審きを避け得ないものにするばかりでありました。イスラエルの王の第一のつとめは、公義と正義を打ち立てることです。そこに神からの委任があり、それをかたくなに無視すれば審きに委ねられる、これが預言者たちの語ってきたことです。

「二度と(山の獅子の)その声が、イスラエルの山々に聞こえないようにした。」(9節)のは、捕囚とされた王が再び、そこに戻って来られないからです。神が王を見放されることが、その民の生活状況を根本的に破壊することになります。それは、ゼデキヤの没落を乗り越えてダビデの約束をさらに継続させたいという希望をことごとく打ち砕いてしまう哀歌として歌われています(エレミヤ28,29参照)。

10-14節に述べられているぶどうの木の譬えは、ゼデキヤ王の運命について語っています。従って、その母はハムタルの事です。彼女はリブナ出身のイメルヤ娘でありました(列王下23:31,24:18)。ハムタルは、ゼデキヤが王位に登り当初の統治に成功した後、全ての期待をゼデキヤに寄せることになりました。そして、「お前の母は水のほとりに植えられた園のぶどうの木のようだ」(10節)という栄華を一時的に体験します。しかし、この期待はむなしい結果に終わりました。根元から切り落とされ、枯れて火の中に投げ込まれ、焼き尽くされる、との比喩は、ゼデキヤの生涯を物語るには、まことに適切な表現です。それは完全な絶滅を告げる言葉で、その王と共にエルサレムでは、王家が滅びてしまうことを告げているからです。

エレミヤは、王家が捕囚とされ、バビロンに連れ去られることを預言していました(エレミヤ38:22,23)。また、エレミヤは、ゼデキヤがエレミヤの忠告の言葉を聞きいれないなら、自身の罪のため周りの人々を一緒に禍に陥れることも預言していました(エレミヤ38;14以下)。

エゼキエルが哀歌を添えたのは、王と共にその家族をも巻き込んだ前586年恐ろしい結果を見据えてのことであると考えられます。引き抜かれ、地に投げ捨てられたぶどうの枝(12節)は、もはや王者の杖に成長することができなくなったこと(14節)を指し、それはネブカドネザルがリブラで反逆者の刑罰の時に行った、ゼデキヤの子らの処刑のことを考えて述べられています(列王下25:7)。ゼデキヤは、その子らの処刑される現実を自分の目で見るよう強要され、それを、最後の肉眼での情景として、目に焼き付けられた上で、両眼をえぐり取られ、バビロンに捕囚として連行されました。そして二度とエルサレムの地を踏むことなく、バビロンの地で死にます。

12-14節前半は、そのようなゼデキヤ王の惨めな最後を歌う哀歌として歌われています。一度引き抜かれたぶどうの木が再び植えられることがないように、ゼデキヤの祖国への帰還はあり得ない。この哀歌は、その事実をはっきりと示しています。

それだけを読めば、この哀歌には、イスラエルの将来に何の希望も見出すことはできません。しかし、預言者の忠告を退け、目先の利益と私腹を肥やすために、民の窮乏と疲弊に目を向けることのなかったこの王の最期を、神の裁きとして起こった出来事として冷静に見るなら、この哀歌は違った意味で、希望の言葉として聞くことができます。つまり、エレミヤが、バビロン王は主の僕としてユダとその王国の将来を良い方に導くことになるから、その支配を受け入れるようにと語った言葉を思い起こすことが大切です(エレミヤ38:17,18)。エゼキエルの哀歌は、その希望の延長線上で謳われていることを理解することが大切です。捕囚の民にとって、この辛い時代は、いつまでも続くのではありません。ゼデキヤ王のように神に聞かないものになるのではなく、神の御旨を告げる真の預言者の声に聞き従う者には、希望があることを告げるための哀歌であることを覚え、心に刻みつけることが大切です。神は歴史の主として、その敵に打ち勝たれる主として、この世界と歴史を支配されているのです。そのことを、つらい時代を生きている全ての人々に向かって、エゼキエルは語っているのです。

旧約聖書講解