エゼキエル書講解

11.エゼキエル書13章1-23節『偽預言者と呪術から離れよ』

人は苦難に遭うと、その現実から目をそらし、一時の慰めや、安易な解決策を与えてくれる言葉に誘惑されやすいものです。正面からその苦難と向かい合って、その原因を探求し、それを自ら克服しようとはせずに、安易な解決策に飛びつきやすいものです。現代の政治家も、危機の時代を迎えているのに、選挙が近づくと、その根本的な解決に立ち向かわずに、安易な一時的な利益を誘導して、その解決を先送りにし、さらに厳しい現実を招来させるような結果をもたらせるようなことを行っています。偽預言者や呪術の働きはそれと似たところがあります。悪しき指導者を持つことは、民にとって不幸なことですが、それが悪しき指導者であることに気づかない民には、その泥沼から抜け出せない、更なる不幸が待っています。

エゼキエルは、エルサレムにおいて政治的、宗教的指導者の腐敗堕落を見てきましたが、捕囚にされた民の中にあって、捕囚の原因を、民と指導者の罪にあるとみなす点で、エレミヤと同じ見方をしています。そして、エルサレムには更なる災難が待ち受けていることを、幻や象徴行動において示して来ました。しかし、「日々は長引くが、幻はすべて消えうせる」(12:22)ということわざを用いて、その言葉に真剣に聞こうとしない民の反逆にあいました。彼らがエゼキエルの言葉を聴こうとしない背景には、捕囚民の間に、預言者を装って歩き回る者たちがかなりいたことを考えなければなりません。

真の預言者は、イスラエルの家の見張りとして、主の口から言葉を聞いて、主に代わって主の警告を語る務めを与えられ(3 :1 7)、その任務は、悪人に警告し、悪の道から立ち帰らせることにありました。その際、悪人が預言者の言葉を聞いたのに悔い改めなかったなら、彼は自分の罪のゆえに死に、預言者は自分の命を救うことになるといわれていました。また、正しい人が自分の正しい生き方を離れて不正を行うなら、主は彼をつまずかせ、彼は死ぬが、預言者は彼に警告しななかったなら、彼は自分の過ちのゆえに死に、彼がなしてきた正しい生き方は覚えられない。しかし、彼の死の責任をエゼキエルに問う、と主は言われます。しかし、エゼキエルが「正しい人に過ちを犯さないように警告し、彼が過ちを犯さなければ、彼は警告を受け入れたのだから命を得、あなたも自分の命を救う」(3:18-21)、とエゼキエルは主から知らされていました。

ここでは、イスラエルの預言者は、「自分の心のままに預言し」、「自分の霊の赴くままに歩む愚かな預言者」であると非難されています。それは、捕囚民の間に国民の指導者層に属す者で預言者を装って歩き回っていた人たちのことを指し、エゼキエルはその非難の矛先を彼らに向けています。民の多くは、現在の悲惨からの早急な脱却を期待し、安易な解決策を期待していました。おそらく偽預言者たちは、そうした民に向かって、良かれと思って、民を励まそうとして、安易な平和、慰めを語ったのでありましょう。しかし、エゼキエルは、それを、「主の日の戦いに耐ええるために、城壁の破れ口に上って」、石垣を築きなおす根本的な解決策を放棄するものであり、「むなしい幻を見、欺きの占いを行う」まさに[主から遣わされてもいない]者が行う、偽預言に他ならないことを指摘しています(5 -6節)。「むなしい幻を見、欺きの占いを行う」行為は、土台から崩れ去っている城壁を築きなおさず、その表面を軽く漆喰で上塗りするだけで、豪雨が襲えばすぐに剥がれ落ちるようなうわべだけの対策でしかなく、それは、「主の日の戦い(裁き)に耐ええない」愚行として厳しく糾弾しています(1 1、12節)。

偽預言者は自分の命を賭して、主の言葉の真実に立って戦うことをしません。しかし、エレミヤもエゼキエルも、真実の預言者として、民の間にあって、主の言葉の真実に立ち、それを証ししました。彼らがその言葉を心から喜んで聞こうとせず、反逆ばかりしても、それを耐え忍びながら語り続けることこそが使命であるとして、命を賭してその業に励んでいました。民とその指導者たちの罪とその問題点を指摘し明らかにするのも、その使命意識から出るものです。そうしないなら、自分が主からその責めを受けることを知っていたからです。

偽預言者が偽りの「平和」を語ることを指摘する点において、エゼキエルは、エレミヤに一致し、彼の使信はその線上にあります。偽預言者の解決策が民に受け入れられる背景には、彼らの示す偽りの敬虔主義とも関係があると考えられます。何の敬虔の装いもない、宗教性もない「平和」の言葉には、誰も共鳴しません。難しいのは、そこにある種の人を満足させる敬虔さがあり、その宗教性がいろんな演出(特に音楽的な響き)を伴って与えられ、そして、主の言葉を装った、真の預言者の言葉と区別のつきにくい、慰めと平和が語られることによって、人々の心を安心させる場合です。「漆喰を上塗りする」様な預言が何を意味するのか、それは具体的に記されていませんので、よくわかりませんが、人々が真に目を向けなければならない罪の問題から目をそらし、「主の日の戦いに耐え得ない」安価な慰めと平安に満たすものであることだけは確かです。音楽やいろんな手段を用いての近づきやすさに気を配ることは必ずしも悪いことではありませんが、肝心の福音から目をさらせるような心地よさ、快感は、神の前における生き方、命の問題に目を向けて生きることを弱める麻薬のような力を持つことがあります。結局、福音宣教がそういうアプローチにとどまってしまうと、現実の苦難と戦う力をいつまでたっても持つことができなくなり、終末の日に耐え得ない根無し草の虚偽の信仰に止めてしまうことになりかねません。それゆえ、「お前たちは、主の日の戦いに耐えるために、城壁の破れ口に上ろうとせず、イスラエルの家を守る石垣を築こうともしない」(5節)、という偽預言者に向けられたことばは、私たちの宣教に大きな挑戦を投げかける言葉として聞く必要があります。御言葉を語る者は、外に向かう宣教だけでなく、内なる神の教会を正しく立て、「主の日の戦いに耐える」ものにするために立てられています。この点が改めて問われています。

危機の時代には、人々の信仰は変質しやすいものです。17節以下に女呪術師の問題が語れていますが、ここにも非常に意味深長な問題が語られています。イスラエルにおいて、女預言者の存在は認められていました。ミリアム(出エジプト15:20)、デボラ(土師4:4)、フルダ(列王下22 : 14)のような女預言者の存在がそのことを証しています。しかし、ここではそのような女性預言者のことが語られているのではなく、イスラエルにおいて明確に禁じられていた呪術、妖術(出エジプト22:17、申命1 8 : I0、11、サムエル上28:3)の問題が取り上げられています。これらの習慣は、本来イスラエルでは排除されていましたが、神の選びの信仰が、捕囚という危機に直面して揺らぎ、女性たちが「ひと握りの大麦とひとかけらのパンのゆえに」行った呪術が、鳥を捕らえるように人々の心を捉え、偽りの宗教的な高揚や快感を味あわせ、その心を解放する役割を果たすことになったのでしょう(17節)。

確かにそれらの呪術は、現実の苦しみから解放し、快感を一時的に与えることはあっても、心をそうした快の奴隷にし、真の罪認識と主への立ち帰りから人々を遠ざけ、真の宗教性と救いから目をつぶらせる、阿片のような働きをする点で、偽預言同様、きわめて危険な働きをしていました。「お前たちは、わたしが苦しめようとはしていないのに、神に従う者の心を偽りをもって苦しめ、神に逆らう者の手を強め、彼らが悪の道から立ち帰って、命を得ることができないようにしている」(22節)とエゼキエルは、その問題の本質を明らかにしています。

呪術の危険は、人間に与えられた宗教的な自由によって、真の神に向かうべき信仰を、偽りの神的力に依存させ、その自由を奪うことにあります。この魔力は、人間性を歪め、破壊し、まことの神から遠ざからせ、人を滅びへと向かわせることになります。

エゼキエルがここで問題にしていることの第一は、偽預言者が偽りの言葉で人間の心を真実の言葉に向かわせず、「主の日の戦いに耐え得ない」人間を造り出していることです。第二は、呪術が人間の宗教の自由、まことの神へ向かう自由を奪い阻害し、道徳的にも腐敗させていることです。そのようにして、そのいずれも、人間を死に至らしめ、滅びに至らせていることです。

しかし、何が偽りの預言なのか、誰が偽預言者なのか、それを判断することは、現実には、容易ではありません。容易に判断できないから、イスラエルにおいても偽預言者が後を絶たず、主イエスの時代においても大きな問題であり続けました。エレミヤは、「平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる」(エレミヤ28:9)と、ひとつの判断基準を示しましたが、真実を語る預言者の言葉であっても、それらはすぐに実現するとは限りません。また、それが部分的にしか成就しなかったり、その預言を聞いた者が生きている時代に実現しない場合もありますので、その判断は実際上、きわめて難しかったといわざるを得ません。

結局のところ、一つ一つの預言は、聖書全体の光の中で、また、大きな救済史の視座の中で、新しく捉え直し、解釈していく必要があります。そのために、私たちは、イザヤだけでなく、エレミヤにも、エゼキエルにも聞かねばならないのです。同時代に民の指導者の中から預言者と名乗る人が多数現れたとき、主の言葉の真実に立つ預言者が誰であるかを見分ける基準は、結局、それを聞く人が、どれだけ深く真実の預言者たちの言葉を聞いて、それらの預言を、歴史の中であらわされた主の言葉全体に照らして判断する以外にありません。そういう地道な積み重ねの中でしか、私たちの信仰は健全に育たないのだということを肝に銘じる必要があります。

旧約聖書講解