申命記講解

26.申命記34章1節-12節『モーセの死』

モーセの死を物語ることによって申命記の叙述は終わります。本章は、元来、32章48節-52節の直ぐ後に続きます。「モーセの歌」(32章1-47節)、「モーセの祝福」(33章)によって中断されていた物語は、ここで本来の流れに戻されています。

モーセは、約束の地カナンにはいることができず、ネボ山から、その地を見渡すことが主によって赦されています。モーセが見渡すことができた土地の名が1-3節に記され、4節において、主はモーセに、「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない」、という主のことばを聞いています。

この言葉の意味は申命記3章23節以下に記されている言葉から理解することができます。

そこには、モーセがヨルダン川を渡って、「ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せてください」、と主に願いますが、主はモーセの祈りを聞こうとせず、「もうよい。この事を二度と口にしてはならない。ピスガの頂上に登り、東西南北を見渡すのだ。お前はこのヨルダン川を渡って行けないのだから、自分の目でよく見ておくがよい。ヨシュアを任務に就け、彼を力づけ、励ましなさい。彼はこの民の先頭に立って、お前が今見ている土地を、彼らに受け継がせるであろう。」という主のことばが語られています。だから、モーセが死に際して、「山頂から見渡す」という行為は、法的表象としての意味を持ち、ここに名を記された土地の譲渡が成し遂げられたという法的な行為として認められたことを示しています。そのことは、創世記13章14-17節に記されている、アブラハムに告げた、「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから」という言葉からも理解できます。

ネボ山の頂上から、実際、ユダの山地を越えて地中海まで眺望することはできません。1-3節に記されている土地は、やがてイスラエルの部族が定着する地域を表しています。

5節の言葉は、モーセの死が主の命令によるものであることを明らかにしています。モーセが死んだ理由は、120歳という高齢による体力、気力の衰えが原因でないことが7節に明らかにされています。その言葉と合わせて読む時、5節の言葉が持つ意味を理解することができます。それは、後継者としてヨシュアを任命する時に語った31章2節の「わたしは今日、既に百二十歳であり、もはや自分の務めを果たすことはできない」と語っているのと違うニュアンスがあります。

ネボ山に登ったことも、そこから見渡した約束の地の眺望も、そこで死ぬことも、すべて「主の命令」によるということは、主の意志とご計画に属する問題であることを示しています。モーセは、神の意志をイスラエルに伝達する預言者として、神の言葉を取り次ぎ、それを明らかにする存在です。そのモーセが主の命令によって死ぬことは、主の預言者としてもっとも相応しい、光栄な死であります。それは、モーセの働きの終わりの時でありますが、モーセが主から託されたその任務は、後継者であるヨシュアに受け継がれることになります。イスラエルの民は、その将来に不安を感じることはないように、神は配慮され、ご自身が与えた約束を成就へと導く意思を明らかにされています。

モーセは、ヨシュアに対して、「あなたの神、主御自身があなたに先立って渡り、あなたの前からこれらの国々を滅ぼして、それを得させてくださる。主が約束されたとおり、ヨシュアがあなたに先立って渡る。主は、アモリ人の王であるシホンとオグおよび彼らの国にされたように、彼らを滅ぼされる。主が彼らをあなたたちに引き渡されるから、わたしが命じたすべての戒めに従って彼らに行いなさい。強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない」(31章3-6節)。全イスラエルの前で、「強く、また雄々しくあれ。あなたこそ、主が先祖たちに与えると誓われた土地にこの民を導き入れる者である。あなたが彼らにそれを受け継がせる。主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない」(31章7-8節)という言葉を既に与えています。

「ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満ちていた」のは、モーセは、自身が死ぬ前にヨシュアの上に手を置いたからであると9節に述べられていますが、それは、エリヤが後継者エリシャを祝福するように、なされました。10節-12節のモーセへの称賛の言葉は、主がモーセに与えた役割の大きさを示すものです。

そのカリスマを譲り受けたヨシュアのカリスマとその職能については、民数記27章18節以下の次の言葉から理解することができます。

「主はモーセに言われた。「霊に満たされた人、ヌンの子ヨシュアを選んで、手を彼の上に置き、 祭司エルアザルと共同体全体の前に立たせて、彼らの見ている前で職に任じなさい。あなたの権威を彼に分け与え、イスラエルの人々の共同体全体を彼に従わせなさい。彼は祭司エルアザルの前に立ち、エルアザルは彼のために、主の御前でウリムによる判断を求めねばならない。ヨシュアとイスラエルのすべての人々、つまり共同体全体は、エルアザルの命令に従って出陣し、また引き揚げねばならない。」

モーセは預言者でありました。しかも他に並ぶことなき預言者でありました。この評価は申命記史家によるものです。この評価はヨシュア記1章まで区切りなく続きます。そしてヨシュア時代への叙述へと移り行きます。モーセを失っても、神の言葉を取り次ぎ、その職を担う後継者を立て、その賜物を受け継がせる働きを主なる神が続けられている限り、イスラエルには悲観するものは何もない、むしろ、どのような悲惨な苦しみの時があっても、神の言葉に聞く者には、希望と確かな命があることを明らかにして、結ばれています。

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