申命記講解

序.申命記について 1.申命記1章1-5節「はじめに」

序.申命記について

① 書名の由来

書名「申命記」は、70人訳聖書と呼ばれる旧約聖書のギリシャ語訳の書名に遡ります。申命記17章18節の「この律法の写し」に当たるヘブライ語(ミシューネ・ハットーラー・ハッゾート)を、70人訳聖書は、シナイで授与された第一の律法に並ぶ、「第二の律法」と誤って理解し、「第二の律法」を意味するデュートロノミオンと訳したといわれています。しかし、申命記全体の内容からすれば、この表題は必ずしも的外れとは言えないという意見もあります。漢語の「申」は繰り返す、かさねる、念を入れる、という意味を持ちます。ですから日本語の申命記は「繰り返された命令の書」という意味です。

② 申命記の形態と特色

デ・ヴェッテ(1805年)が、申命記の形態について、モーセ五書の中で申命記の部分が文献学的に独立したものであるという指摘をしたことにより、申命記に関する学問的な認識を史料批判に基づいてなされるようになりました。申命記そのものは4章44節-30章20節の部分だけに限定される、と見るのが現代の聖書研究者の共通した見方で、1章1節-4章43節と31章-34章の段落は、文献学的には申命記のまとまりとは別のまとまりと見なされ、それは、ヨシュア記から列王記下の末尾までに及ぶ、「申命記史家」による著作に帰される、といわれています。
申命記4章-30章からなる申命記は、独特な構成をし、民に向けた勧告、語りかけ「説教」が、申命記12章で「律法」の朗読へと転じ、律法の朗読は26章16節-19節で契約締結の定式表現へと行き着いている。その後に、祝福と呪いの告知が続き、申命記は、祭儀的祝祭における典礼の順序に従って構成されている、と想定すべきである。申命記は、全体がモーセの言葉として様式化されているが、形態の点で、語り手がひっきりなしに交替しているのは、申命記そのものと、そこに含まれているここの素材が、複雑多岐にわたる前史を持っているに違いない、とフォン・ラートは指摘しています。
申命記の律法や宗教的な法規定あるいは法文の素材の大部分は、契約の書(出エジプト21章―23章)から採られているが、奴隷購入の事例では、申命記15章12節以下、土地所有をめぐる事情の変化したことにより、変更が加えられています。契約の書では、債務免除に関する法は、宗教的な制度で、もっぱら農耕生活に適用され(出エ23:10-11)、宗教的な動機から取り扱われている。この慣習では、土地の所有が本来ヤハウエに属することが示されています。この慣習は、農耕が唯一の収入となっていない時代、つまり牧畜経済と並んで農耕が付随的にしか営まれなかった時代には実行可能でしたが、申命記15章1節以下では、「免除」が持つ法的拘束力が、債務法にまで拡大され、この慣習は決定的に変化し、免除は経済的な価値判断の問題として扱われています。それは、申命記が契約の書より一段と経済活動が進展した段階を反映しており、申命記の時代を王国時代にまで引き下げて考える必要があります。
また、契約の書にない、申命記にしか見られない申命記における特徴的な特殊素材は、「戦争法規」です。申命記20章1―9節は、王国時代になって初めて成立し得るもので、申命記に含まれている王の法規定(17:14-20)は、王はかくあってはならない、という王制に対する否定的傾向が強く、ソロモン王に関する申命記史家のイメージがモデルなっている、といわれています。
申命記の最も重要な特異性は、「ヤハウエが選ぶ場所」に祭儀を集中させる要求です。しかし、申命記には、中央集中の要求を知らない様に思える法規も少なくありません。イスラエルが宗教的な部族連合を形成していた士師時代、契約の箱が存在していました。その箱が最後にあったシロで挙行される巡礼祭に諸部族は上って行きました。申命記の宗教祭儀の中央集権化の要求は、民の宗教的な生活の空洞化世俗化に対する危機意識の中から生まれたものであろう。過越祭は、元来地域の親族単位で守られた祝祭であったが、カナン土着の種入れぬパンの祭と結合されたことによって複雑なものとなったが、申命記は、過越祭を、巡礼祭に転化させ、古い習慣を打ち砕いた、とフォン・ラートは指摘しています。
契約の書に見られる「条件法」は、古代オリエント世界に広く流布していた法文化にイスラエルが順応し受容したと考えられています。これと区別される「断言法」は、十戒において認められ、この類型を申命記の箇所からも見出すことができます。土地取得後、イスラエルは古代オリエント世界に流布していた法文化に自ら順応しそれを受容しましたが、その併存は、イスラエルの宗教共同体としての在り方を目指す、祭儀の領域に由来する、との見方があります。
申命記全体は、モーセが行った説教として記されています。それは、申命記的な法規定の解説、教示、とりわけ神の意思に対する人間の基本的な姿勢を問題にし、歪みのない正しい精神を呼び覚ますことに主眼が置かれ、個々人の心情に訴え、一人一人の良心に向かって、神への従順という問題を突き付けています。法を説教調に開示しようとする意図が、申命記12章―26章の内部に、均等に見られるわけではありませんが、6章10-9章6節には、きわめて個性的なまとまったブロックがあります。説教は、ヤハウエ宗教を構成する本質的なものを、一つの文で完結直截に要約しようとしています。それは既に、後の時代のものであり、イスラエルの生の秩序にかかわろうとする、その語られた時代における「現代的」精神が見られます。彼ら説教者にとっては、イスラエルの過去の時代に由来する古い諸伝承は、それだけで既に規範としての適法性を持っています。申命記は、イスラエル初期の時代に起源を求めます。あるいはモーセ自身に証言を設定することに向けて、何かを証言しているとすれば、それは、申命記の個々の語る節で語る歴史の重みであり、計り知れない伝承の重みを持っています。
しかし、説教者たちは、古い時代と、彼らが訴えようとしている時代との間に大きな隔たりがあることを、ほとんど自覚していません。いたるところに、全く新しい問題が存在していたため、彼らは、古い伝承の中からそうした問題の解決を、求めなければならなかったからであると、フォン・ラートは考えています。
説教の特徴を持ちながらも、説教と見なしえない、もう一つ別の類型があります。それは申命記の三つの箇所に出てくる。回顧録の一人称の文体で、モーセの口から語られる、歴史叙述(1-3章,4:9以下、9:7以下)です。ここに登場するモーセは、まるで王国時代末期のイスラエル人のように考え、語り、書き記します。
それゆえ、申命記の著者問題は、この説教の担い手が一体誰であるかを問うことから始められるべきです。古い祭儀的、法的伝承を自分たちが立っている時代の現実に即して生かそうとする課題を持った人々であり、古いイスラエルの制度がどれも自分たちの成長のサイズに合わなくなった切迫した状況にあり、時代の民に、その時代の問題に、その問題の本質を解釈し、かくあるべきことを告げる立場にあった、宗教的な職務に携わっていた人々が著者として想定されます。それはイスラエル伝承史の中でも、比較的後の時代に立っています。エズラが天にいます神の律法を読み聞かせた、という叙述で(ネヘミヤ8:1以下)、歴代史家が、その時読み聞かせたものを解釈しながら、レビ人が民に律法を教えたと報じています。申命記の時代設定を考える場合、典拠であるこれらの箇所は、その歴史の流れの中では、時代的に申命記よりも後の下流に属しています。申命記に求めているような法解釈の活動は、既に前五世紀に知られていたのであれば、それよりも早い時代から、祭司=レビ人がこうした活動に従事していた可能性があります。申命記の説教者を祭司・レビ人に求めるもう一つの手掛かりは、戦争法規定(20:1以下)にあります。彼らは、敵対勢力に対抗し、熱弁をふるってイスラエルを結集すべく呼びかけていますが、この敵対勢力とは、究極的には、ヤハウエ宗教と相いれない、カナン宗教です。カナン的なバアル宗教に対する宗教的混淆に対する戦いは申命記のすべての箇所に貫いている特徴があり、これは南ユダ王国より、北イスラエル王国の宗教事情にぴったり適合します。申命記は、全イスラエルに向けて語っていますが、イスラエルをこのように理解する伝統の座は北イスラエル王国にあります。申命記と預言者ホセアとにある一致点は、ホセアの王国批判の論争(ホセア3:4,8:4,10,13:11)に見られ、申命記の王国に対する否定的な見地(17:14以下)との一致を裏付けます。申命記が成立した場所として、北イスラエルの聖所の一つ(シケムあるいはベテル)を考えなければならないし、前621年より1世紀さかのぼる時代を設定しなければならないでしょう。しかし、申命記内部での生成発展があらゆる本質的な点で、最終的にその編集作業が閉じられたのは、壮大な申命記史家による歴史著作の中に埋め込まれた時、つまり、少なくともヨシヤ王の死から50年後の時代である、と想定する必要があります。
申命記の説教は、民と決別しようとしているモーセの口を通して、荒野の放浪の後、モアブの地で、イスラエルに語られています。申命記全体が、この虚構(フィクション)が初めから終わりまで貫いています。これが虚構というのは、これら説教によって語りかけているのは、王国時代末期のイスラエルだからです。それを理解するには、一つの都市全体が背信に陥る可能性(13:13ー14)や、偽りの預言者の出現、普及した貨幣制度について語られていることを、考えるだけでよい、とフォン・ラートは述べています。
申命記は、時代を超越した不変の「律法」を目指しているわけではありません。その歴史の、ある特定の時点におけるイスラエルに向けて語りかけられており、この特定の時点における所与の事実、諸問題、諸々の危機を眼前に描きだし、真剣に受け止められるべきことを表現しています。他方、見逃す事が出来ないのは、語りかけている当の時代に向けて、ヤハウエの意志の啓示全体を包括する試みとして、「教えの総体」のようなものであろうとしていることです。この試みの背後に、説教的関心と並んで、理論的・神学的に理解しようとする意図も同じように存在していました。この関心によって、申命記は正典形成に至る途上にあり、イスラエルにとって、権威ある意義を持つ諸伝承を選び出し、限定する方向性を帯びるものとなっています。申命記は自らを、古いイスラエルの伝承を自由に、極めて柔軟に、かつ何よりも口頭で語りかける形で解釈し、現実化するものと理解しています。しかしそれ以上に、父祖やモーセの時代から受け渡された最古の伝承は、申命記にとっては、ほとんど既に、正典としての妥当性を持つものでありました。古い伝承素材の規範としての性格は、申命記そのものへと置き替えられ、文書に書き記された「信仰の規範」(レギュラ・フィデイ)として、権威を持つようになり、その権威は、ユダヤ教においてもキリスト教においても確固としたものとして認識されています。申命記は、旧約聖書の中で新約聖書において最も多く引用されている事実がその権威の高さを物語っていると言えます。

1.申命記1章1-5節「はじめに」

1-2節の地名の位置は、定かでありません。現代の聖書の研究者は、これを後の時代の加筆であると言っています。1,2節で列記されている地名については二つの違った解釈があります。第一は、モーセがイスラエルの民に語った「ヨルダン川の東側(向こう側)」を明示する地名であるとする解釈です。しかし、この箇所以外にこの解釈を示唆する記述は見当たりません。第二は、シナイ山からカデシュ・バルネアまでの荒れ野を旅する時に通るいくつかの町であるとする解釈です。イスラエルの民は、カデシュ・バルネアで荒野での40年のうち38年を費やしたことが2章14節にしるされています。ホレブ山(シナイ山)からカデシュ・バルネアへの旅は、通常徒歩で11日の道のりであると言われています(2節)。これらの地理的表象も、その旅の様子も、申命記におけるモーセの説教が王国時代末期あるいは滅亡後の編集によることを考えるなら、この説明も、ほとんど意味のないことになります。
大切なことは、「モーセは、ヨルダン川の東側にあるモアブ地方で、この律法の説き明かしに当たった。」(5節)という、申命記の説教のフレームを、冒頭に記されていることです。それはカナンの地で、主の民イスラエルとして聞くべき、ヤハウエの教えが語られ、現在、ヨルダン川の西側で、王国の危機の中で聴いている聴衆に向けて、これをどのように聞くべきか、その信仰の在り方を問う説教の言葉として、聞くべきことがこの書の導入の言葉として示されていることを理解し、実際の主の民としての歩みをどう規律すべきかを、この説教を聞く各自が考え、生かしていくことです。

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