アモス書講解

22.アモス書9章11-15節『後の日の回復』

ここには二つの救いの預言が記されています。第一の預言は、11-12節です。第二の預言は、13-15節です。これらの預言は、アモス自身に由来すると考えるには多くの困難があります。アモスの本来の預言には、慰めはなく、神の審判の言葉だけが語られています。アモスは、神に背き続けている背信の民の前に立って、慰めを語りたくても語れず、神預言を告げるべく召されていたからです。

しかし、この預言に前提されている時代環境は、それとは異なります。国の滅亡と捕囚を経験した民に向けられています。すなわち、前586年のバビロン捕囚以後のものです。ダビデ王朝は第3回捕囚をもって完全に滅びました。ここには、その状態からの復興が語られています。「ダビデの倒れた仮庵を復興」(11節)するのは、この倒れたダビデ王朝と比較することによってのみ可能となるからです。破壊された町の回復(14節)も、失われた土地への復帰(15節)も、捕囚後の回復によって実現する事柄であるからです。

従って、これら二つの預言は、いずれもアモスが実際に活躍した北イスラエル王国に関するものではなく(アモス自身は南ユダ王国のテコアの出身であった)、捕囚後の慰めを必要とする共同体を、神の約束によって励まし、神の力と恵み深い神の救いの意志への信仰において、強めることを意図して書かれたものであると思われます。これらの預言に含まれている使信は、神の審きが行われたことを前提にしています。しかし、それを超えて、審きではなく神の救いこそが終局であるとする、神の歴史形成の究極目標を指し示しています。

アモス書は、これらの終末論的予告をもって閉じられています。それは捕囚後の共同体を動揺させた問題に、神から回答を与えることを意図したものです。元来、神の審判と威嚇をのみ記すアモス書に、これらの約束の言葉を結合したのは、捕囚時代の編集者が、その時代と後の世代とに対して、アモスの告げる神の言葉をどのように聞くべきかを示す指針とするため、と思われます。神の言葉を退ける者に避け得ない審きとして、現在の捕囚の惨めさがあります。しかし、その中にあって悔い改めて聞く者に表される、解放の福音としてのこれらの慰めの約束は、アモスが審きの言葉の中で求めた悔い改めの唯一の可能性であったことを告げようとしています。審きはこうして福音となります。審きを審きとして徹底して伏して悔い改めて聞く者に、神はもう一度思い起こし、再興を約束される恵みの神であることを示し、アモス書は締めくくられています。その意味を今日の読者はもう一度考えなければなりません。

11-12節の預言は、「その日には」という終末論的な導入句によって、ダビデ王朝の再興とエドムの残りの者の継承を約束しています。この中で特に、エドムの生き残りの者に対する約束が興味深い。エドムは前587年にユダ王国が滅亡すると激しい復讐を行いました(詩137:7,イザ34章,オバ10-14,哀4:21,エゼ25:12以下等)。ついには、捕囚によって減少した南ユダにエドム人は入りこみました(エゼ35:10以下,36:5)。エルサレムの滅亡に際してなされた、このエドム人の残酷な行為が、ユダヤ人の民族感情に与えた傷は未だ癒されていません(オバデヤ10-11)。しかし、ダビデ王国再興に際して、エドムのようなイスラエルの敵においてさえ、「わが名をもって呼ばれる」者とすることが語られています。

ここで語られている終末は、歴史の終わりではありません。ダビデ王朝の再興は、神の支配が最終目標であることが告げられています。ただ神のみが、ご自身の全能の力で救いを与えることが語られています。エドムのようなイスラエルの敵も含めて、あらゆる民族がヤーウェに所属する者として、その救いの目標に用いられるということが語られています。あらゆる民族は、再興された神の民と共に、ついには神の支配の下に立ちます。「主はこのことを行われる」という12節の結びの言葉が、その確かさを確証するものとしてここに置かれています。信仰者はこの約束によって生きるのです。

13-15節の第二の預言は、やはり「見よ、その日がくれば」という終末的言葉によって語られています。13-14節の預言の言葉は、驚くべき豊作と驚異的な町の再建とを語っています。これらの言葉は、アモスの告げた容赦のない徹底した審判の言葉(5:11)と全く対立します。しかし、アモスは、悔い改めて主の正義を求め、善を行うなら、「あるいは…ヨセフの残りの者を憐れんでくださることもあろう」(5:15)という希望の福音も告げていました。アモスの時代の民は、これに聞くことはありませんでした。南のユダ王国も、北イスラエル王国滅亡の教訓を生かすことが出来なかったのです。そして、捕囚を体験した民は、現在の悲惨と苦しみの中で、このイスラエル再興の慰めの言葉を聞いています。それゆえ、この救いにおける神の約束は、一度徹底した神の審きを経験した民に対するものです。この神の救いの約束は、罪に対する神の審きを認識し、前提して、初めて存在するものです。救いの道は、この現実を知った者が悔い改めて与えられるものです。アモス書に与えられるこの慰めに満ちた響きは、新約聖書の福音を指し示しています。

ここに約束されている農作物の豊かな実りとイスラエルの繁栄と回復とは、霊的というよりは物質的な恵みを表します。しかしそれは、旧約聖書が約束する恵みのこの世的性格から当然のことがいわれているに過ぎず、これらの約束が指し示していることは、究極において霊的な事柄です。神は自然の創造者として、その支配の中でご自分の言葉に聞き、悔い改めるものに、もう一度恵みを与えられます。しかしそれは、一時的なものでない、「再び彼らが引き抜かれることはない」という永続性が約束されています。それは、ダビデ王国の地上的再興である限り、物質的なものにとどまりますが、15節の「植え付ける」と「引き抜く」という用語がエレミヤ的であるということは興味深いことです。アモス書を締めくくる慰めのメッセージがエレミヤ的用語(エレミヤ1:10,24:6等)を用いているところに、この編集者のアモス書の言葉の理解の方向を指し示す意図を見ることが出来ます。アモスは地上的一時的繁栄と、利益に結びつく信仰を否定し、神の言葉に聞く真の敬虔を求めて、主の審判の言葉を語りました。どこまでも神の言葉に聞く霊的信仰を求めるものでありました。神の約束と祝福とは、ただ神の言葉にのみあるというものでありました。それは、まさにエレミヤが求めたものでもありました。神は、そのように御言葉に聞く者を再興されます。それは、「新しい契約」として与えられる恵みでありました。エレミヤは、それを32章37-41節において次のように語っています。

「かつてわたしが大いに怒り、憤り、激怒して、追い払った国々から彼らを集め、この場所に帰らせ、安らかに住まわせる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫にとって幸いとなる。わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする。わたしは彼らに恵みを与えることを喜びとし、心と思いを込めて確かに彼らをこの土地に植える。」

それゆえ、この15節で「植え付ける」といわれているのは、再び消されることのない、御言葉に聞く信仰の心です。それは、聖霊によって与えられる恵みであることをパウロは告げています。エレミヤの言葉とアモスの言葉を一つにして、御言葉に聞く信仰こそ、霊のイスラエル再興の唯一の可能性であることを、この言葉は示しています。

これらの言葉は、アモスが告げる審きについて、審きが目的ではなく救いにあることを告げています。しかし、神の救いの約束は、罪に対する神の審きを曖昧にするものではありません。審きを前提にしています。これらの言葉を聞いたものは、神の審きとしての捕囚を体験している民です。彼らは徹底した審判を告げるアモス書の中に、エレミヤの慰めに満ちた約束を同時に聞いたのです。救いへの信仰の道は、一度徹底的に審きを受けて、悔い改めて聞くことによって通じる。このことを学んだ者に与えられることを告げています。その様にアモス書に聞く者には、アモス書の中に慰めに満ちた福音を聞くことが許されています。

旧約聖書講解