アモス書講解

4.アモス書2章6-16節『イスラエルに対する審判』

近隣諸国民に向けて語られた主の審判は、ここからイスラエルに向けられます。その語り口は、諸国に対する審判と全く同じ形式が取られています。しかし、他の七つの宣告に比べると、その形式も内容も多様で複雑になっています。その罪状も他のものと異なり、イスラエル社会の不正(6-8節)、過去の救いの歴史に基づいた叱責(9-12節)、が中心となっています。イスラエルに対する審判(13-16節)は、焼き尽くす災いではなく、イスラエルをその足下から覆し、民全体の滅亡をヤーウェ自身が予告する形式が取られています。

このアモスの諸国に対する審判預言(1:3-2:16)は、聖所における祭儀の場で語られました。聴衆は、最初、諸国の罪責を語るアモスの言葉に同意し、喜んで聞き、アモスもまた愛国的な預言者の一人であると歓迎していました。しかし、アモスがイスラエルの罪を、敵の罪過と同一の次元で語るのを聞き、冷水を浴びせ掛けられる思いに一転しました。そして、預言者が目指していたのは、はじめからイスラエルの罪を明らかにすることあったことを、聴衆はその驚きの中で知りました。

アモスは、近隣諸国の預言に際しては、導入部において「三つの罪、四つの罪」と言っているにもかかわらず、ただ一つの罪しか挙げていません。しかし、この段落になってはじめて四つの罪を数え挙げ、イスラエルの現状と運命に関し詳しく述べています。この詳細な語りの中に、アモスの預言の目標がイスラエルに向けられていたことを明らかにしています。

イスラエルの民は、自分たちを脅かす異邦人の国々が罰を受けるのは当然であると思っていました。しかし、アモスは、神の慈しみと恵みを経験していたイスラエルは、異邦の民と同じ運命にあることを語ります。否、それ以上の罰を受けると告げます。なぜなら、イスラエルはヤーウェにとって特別な恵みの対象だからです(3:2参照)。

6-8節で述べられている罪状は、出エジプト記でヤーウェとイスラエルとの契約が述べられている問題に帰結します(出エ23:6-9,22:24-26申命24:10-13)。

「あなたは訴訟において乏しい人の判決を曲げてはならない」(出エ23:6)と言われていますが、罪のない貧しい人々(ダッリーム)が強欲な権力者たちによって些細な負債の故に、「靴一足の値で」奴隷として売られたり、家畜同様に扱われたり、更には役に立たなければ、ぼろ布のように捨てられていました。

人間の売買は、古代オリエントやイスラエルの法律でも、負債がどうしても払えない場合に認められていました。ただし、「ヘブライ人である奴隷を買うならば、彼は六年間奴隷として働かねばならないが、七年目には無償で自由の身となることができる」(出エ21:2)と定められていました。しかし実情は、一度奴隷となった者が独立した生活を再開しうるのは例外でしかなかったのです。

イスラエルでは、先祖から受け継いだ土地を所有する独立した男のみが、法的にも力を持ち、祭儀に参加し、武装の権を持ち、「アム」すなわち、「民」として認められた祭儀共同体の一員と認められましたから、負債奴隷となった者は、「民」としてイスラエル共同体への参加と、神との直接的な関わりから除外されました。アモスはこの法に根本的に反対しているのでも、人間売買の蔓延に憤っているのでもありません。抑圧者は、一片の憐れみもかけずに、貧しい犠牲者たちの担保として差し出させた衣を、礼拝の誓いの儀式に用いたり、取り上げた酒を犠牲の供え物として用いていました。彼らは貧しき者から搾取したもので、自らの礼拝祭儀行為を整えるという偽善的な敬虔をあらわしていました。そこには、とり返しのつかない悪しき傾向が羽化し始めていました。

しかし、アモスにとって重要なことは、これらの個人的な出来事ではありません。その結果と背景でありました。認められた法を隠れみのにして、神の「道」(デレク)が蹂躪されることに対して、アモスは神の権利に対する重大な侵害を見ました。人間と、救済を与える神との結びつきは、神の遺贈として与えられ、自己のものとされた土地を通して得られる経済的自由と不可分のものとして結びついていました。神が父祖たちに贈った土地の上のデレク(道)は、人が成功するための条件でありました。人は自己の相続地の上に生を営むべきでありました。人が大地に押しつけられると、彼の人生の希望はなくなり、実際的には死んだものと見なされました。デレクはこのように、神の遺贈としての土地所有と深く結びついていました。アモスは、人生の希望と有意義性を根底から崩壊させている罪の現実を糾弾しているのであります。

出エジプト記22章25-27節には、「もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか」といわれています。貧しい者の上着は、「唯一の衣服であり、夜寝るときに用いられる肌を覆う寝具でありました。それを奪うことは死を意味していました。

「神殿の中で」は、直訳すると「彼らの神の家で」となります。ヤーウェと、このような行状とは、もはや全く無関係でありました。ここには全く異なった二つの宗教的世界が相対峙しています。イスラエルの民は、貧しい人や寄る辺ない人々を助けるのが神の意志であることを知らなかったわけではありません。しかし、現実の生活でそれと真剣に取り組むことはなかったのです。そこにあるのは、祭儀的熱心と社会的不正とが背中合わせに分裂している現実に全く目を留めず、気にも留めていない人々の姿です。その原因は、神の意志の絶対性に対する彼らの錯覚にありました。

7節後半は、当時行われていた祭儀的習慣について語っています。その習慣とは、神殿の聖娼との交わりによる多産の宗儀に由来するものでありました。しかし、アモスが問題とするのは、この宗儀の異教的起源ではありません。この慣習が父と子にもたらす錯乱した結果です。この習慣は、神の神聖性の冒涜以外の何ものでもありませんでした。イスラエルの民は、宗教祭儀の名のもとに、家族の倫理的基盤を破壊し、ヤーウェの名を汚していることさえ気づいていなかったのです。民がその罪に気づかないのは、ヤーウェが実在し、ヤーウェと対面して生きているということが如何なることであるか、ということに対する根本的な無知が原因でありました。

9-12節はそのことを問題にしています。

アモスはイスラエルの民に、「彼らの神」ヤーウェが如何なる神であるかを明らかにします。救済史に触れることは、ヤーウェの審判への準備としての意味を持ちます。過去におけるヤーウェの救いの業こそ、民に対する滅亡の審きを必然としている根本原則であることを明らかにします。過去におけるヤーウェのイスラエルの民に対する大いなる業が、ヤーウェの恩寵の大きさと比肩するもののないヤーウェの力を示すものとして、数え上げられています。アモリ人はカナンの先住民でありました。その民を絶滅させ、荒野の放浪の40年を助けたのはヤーウェでありました。預言者や聖別されたナジル人を派遣したのはヤーウェでありました。これらの言葉は、イスラエルの民の歴史を支配しその運命を掌中にする神を示しています。

これまであらゆる危険からイスラエルを救ったのがヤーウェであれば、それと同様に、この神が彼らを投げ捨てることができるという結論を、イスラエルは真剣に考え、引き出そうとはしませんでした。イスラエルはヤーウェの恵みの保証を求め、その恵みのみを享受しようとするだけでありました。

しかし、アモスは、この過去におけるヤーウェの恩寵による救いの業から、この厳しい結論を引き出します。9-12節は、諸国民に対する審判預言と共通の思想に立脚しています。イスラエルの敵を根絶やしにし、自らの民を助けて生かしめた力ある神は、ここでもまた、ご自身の秩序を自ら回復される神であります。それゆえ、神ご自身を侮るこの民を敵同様根絶やしする力を持っている方であることを、アモスは告げます。

アモスにとって、歴史において第一に問題なのは神であって、イスラエルの特権ではありません。だからアモスは、歴史の現実において明らかにされた神の力の前に民を立たせて、この愚鈍な者たちが、神の救済史的業を受けとめると同時に、審きの必然性という帰結そのものを引き出さざるを得なくします。

13-16節において、アモスはイスラエルへの審きを語ります。13節の「見よ、わたしは」という語りだしと、14節の「そのときは」と16節の「その日には」という言葉が、この預言の終末的な性格を表しています。アモスは、その審きが「地を裂く」ものであり、「足の速いものも逃げおおせない」ものであり、「強い者もその力を振るいえず」「勇者も自分を救いえず」「裸で逃げる」ほどのものであることを語っています。その大惨事とは、恐らく大地震であると思われます。しかし、その詳細を論じることはアモスにとって本質的なことではありません。アモスが伝えようとしていることは、切迫した神の介入から逃れることは不可能であるという印象を強調することです。しかし、これを聞いたイスラエルは、「預言者に預言するな」といって退けるだけでありました。そこに癒しがたい彼らの罪がありました。

アモスの威嚇の核心は、イスラエルの運命にあるのではありません。神の現実にあります。神の現実は、自己を貫徹することにあります。イスラエルも、その敵も、たとえ見ようとしなかったとしても、神の意志は貫徹されます。アモスにとって、審きとは、個々の罪責に対するものではなく、神に対して絶対的に依存すべきことと、神に対する責任を負うべきこととを、真剣に受け止めようとしない人間の根本的な姿勢に対して、神が自己を貫徹することです。この神の現実を証言することが、預言者の任務であるとの強い自覚のもとにアモスは語ります。

神により頼まない、神に対し負う責任を真剣に受け止めないイスラエルを、神は審くことによって自己を貫徹されます。そこには、一切の妥協や憐れみは示されません。その罪を裁くことによって、神が神であることを明らかにされます。そのことによって、神の前に立つ人間が何であるかが明らかにされます。

それは、イエスの十字架において明らかにされています。十字架は、神により頼まないこと、神に対し負う責任を果たさない人間の罪に向けられた神の怒りの審判であります。神はその罪を自らのこととして引き受けられ、赦しが、愛する独り子なるイエス・キリストを通して表されたことを新約聖書は語ります。しかし、アモスの語る、神の審きを避けえない人間の罪の現実を認識することなく、その赦しの本当の偉大さを、人間は認識することはできません。

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