アモス書講解

3.アモス書1章3-8節『諸国民に対する審判』

アモス書は、その内容を区分すれば、次のようになります。

表題と序言              1:1-2

第1部 イスラエルと近隣諸国への審判 1:3-2:16

第2部 イスラエルの滅亡       3:1-8:18

①警告と審判             3:1-6:14

②幻                 7:1-8:3

③終わりの日             8:4-14

結び                 9:1-15

 

1章3節から2章の終わりまで、イスラエルと国境を接する七つの国々が取り上げられ、ヤーウェの審きが宣告されます。ここには一定の形式と構造が見られます。アモスは公の預言活動の初期においては、愛国的な救済預言者と同じ流儀に従って現れました。彼が、イスラエルに敵対する近隣諸国に対して主の審きを語り出した時、聴衆はその言葉に重大な関心を示し同意しました。しかし、その後、イスラエルに対する主の審きを語った時、聴衆は強烈な打撃を与えられる事になりました。近隣諸国に比べて、イスラエルに関する審きは非常に長くなっています(2:5-16)。しかも、諸国民への預言の段落に見られる意図的、単調で同一の構造に比べ、イスラエルに対する預言において、イスラエルの罪とイスラエルの民への審きは、より広範で徹底した詳しさで扱われています。これは明らかに、諸国民に対する預言が、イスラエルに対する審きに基づくべき前提条件を準備するものとして語られ、預言の中心がイスラエルに対する審きを語る事にあることを示しています。この預言によって、アモスが、いわゆる愛国的な救済預言者(ミカ3:5-8)と一線を画す預言者である事が示されています。

諸国民への預言の段落のうち最初の二つは、先王の時代にはイスラエル民族にとって危険な存在であった、アラムとペリシテという二つの主要な敵に向けられています。9-10節のティルスやシドンなどフェニキアを代表する商業都市に対する審判の宣告は、イスラエルでは紀元前7世紀の終わりに始めて見られる事から、後代の編集者による挿入と考えられます。11-12節のエドムに対する審判も、アモスの時代にはどちらかといえば、イスラエルの方がエドムを圧迫しており、ここに記されているように関係が逆になるのは、捕囚期以後の事ですから、これも捕囚期以後の挿入と考えられます。これらに続く二つの段落は、民族由来伝承の中でも兄弟部族として周知のアンモンとモアブの両国に向けられた預言です。最後のユダに関する預言も、構成的にはティルスとエドムに対する審判と同じです。しかしその内容は、ティルス、エドムと全く異なります。むしろ申命記的文体と思想を反映し、この部分も後代の挿入である可能性が高いと思われます。したがって今回は、純粋にアモスのものと思われるダマスコとペリシテに対する二つの預言だけを取り上げる事にします。

 

①アラム(ダマスコ)に対して 1:3-5

各段落の最初と最後に「主はこう言われる」という言葉が記されています。これは、告げられる言葉がアモス自身からではなく、神の命令に服従して語るのだという事実を強調する言葉です。預言者が告げねばならないのは、神の言葉です。神がひとたび口を開かれたなら、もはや後戻りはできません。神の言葉において決定的出来事の始まりとして現実化しつつある事柄を、人間の側で回避する事は不可能です。また神自身も、何らかの意味で人間的な思いやりに陥り、ひとたび口にされた審きを取り消される事もありえません。アモスは、この神の言葉の絶対性という考えを、特別の荘厳さを持って最初に重ねて強調します。こうして、神の言葉を無条件の真剣さで受けとめねばならない事を告げています。

そして次に、各個の国の罪が述べられます。「三つの罪、四つの罪の故にわたしは決して許さない。」という言葉が続きます。ここでは、単に敵の一つの罪が問題とされているのではありません。この修辞法によって、その罪過が非常に多いということを表現しています。しかしながら、ここでは単に罪が多い事が非難されているのではなく、罪自体の性質が問題にされています。宣告を受けているそれぞれの国が非人道的な戦争犯罪を、どれほど数多く犯したかという事よりも、むしろ、契約違反に対する各国の責任が問われています。アモスは、諸国民の審判の告知において、主の正義と公義を表すツェダカーやミシュパートの語を用いません。その罪を表現するヘブル語は、元来権威に対する反逆、すなわち契約破棄の行為を意味する語、「ペシャ」が用いられています。

ダマスコは、ニネベ、バビロンと並んで非常に古い町で、旧約聖書でアラム人の国と呼ばれた首都でありました。この町はヨルダン東岸のイスラエル領(ギレアドはその主な町)と接するため、イスラエルと争いが絶えませんでした。アラム人の王国は地中海への進出を意図して、イスラエル人の所有地に対する野望を燃やしていたので、長期間にわたり緊張と国際紛争が続きました。恐らくアモスはここで、エフライム族とマナセ族にとってヨルダン川東部の居住地であったギレアドが、前9世紀の末にハザエル王の軍勢によって被った恐るべき惨事を考えていたのでしょう(列王下8:11-12)。

「鉄の打穀板」は麦打ち場で麦の脱穀のために使う器具で、鋭い鉄の歯をたくさんつけた板でありました。麦の殻を取るため一面に広げた麦の上を牛や馬に引かせて使用しました(イザヤ28:28)。このイメージは敗戦者の全滅を描写するために用いられています(イザヤ41:15)。

アモスの言葉を聞いた聴衆は、神が、己が民を捨て置かず、同胞に対して加えられた暴行に対する復讐をされる、という意味で聞き取って満足しました。しかし、アモスがこれらの言葉で伝えようとしたのは、それ以上のことでありました。アモスの眼前に立つ神は、あらゆる人間の罪過を罰し、その倫理的要求を諸民族にも行い、その力には如何なる限界もありません。この神こそ審きの行為主体となられます。

こうして神の審きは王の家とその宮殿を撃ちます(4-5節)。ハザエルとベン・ハダドは、イスラエルの不屈の敵であるダマスコの王の名です。「火」は神の怒り、神罰の象徴として聖書に数多く用いられています。前732年にアラム人の王国(シリア)は、アッシリアによって滅ぼされます。しかし、アモスの預言は隣国の運命を予告することにその本質があるのではありません。アモスにとって本質的なことは、歴史の背後には神が立っておられ、神はご自身の秩序に対する如何なる毀損をも見過ごしにされることはないということです。出来事の人間的背景や、政治的な意味連関ではなく、神的背景と、神的な意味連関と、神の行為とが、預言者アモスの歴史理解の中心にあります。アモスはこの歴史理解に立って預言を語ります。

 

②ペリシテに対して 1:6-8

この段落も前段と同じ構造を持ち、ペリシテ人に対するものです。叱責の言葉の中ではガザだけが叱責されていますが、7-8節の威嚇の言葉が明らかにしているように、アモスはペリシテの都市同盟全体を念頭において語っています。ペリシテ人は、前12世紀にエーゲ海地方からパレスチナ地方に移住した民族であり、サムエルとサウルの時代に、当時台頭しつつあったイスラエル人国家の一大脅威となってあらわれました。アモスは、ペリシテ人がすべての村々をエドムに対して奴隷として売ったと非難しています。古代近東では捕虜を奴隷として売り渡す行為は一般になされていました。しかし、この非人道的処置は、イスラエル人の誇りを痛く傷つけたに違いありません。また彼らの信仰よれば、イスラエルの誇りとともに、イスラエルの神の名誉も同時に傷つけられたのです。

だから聴衆は預言者がペリシテ人に対する神の威嚇の言葉を語るのを聞いた時、歓呼して歓迎しました。しかし、アモスは、彼らの期待したところとは違う観点から、ペリシテ人に対する神の審きを告げています。神は、神の秩序への侵犯によってご自身が挑戦されるところでは、自己の意思をあくまで貫徹されます。それが審判となって現れたのです。

宗教的に無感覚な聴衆の間では、アモスのこのような預言は、「ヤーウェはイスラエルと共にあり」、という確信を強める働きをしたに違いありません。彼らは、それによって、自らの民族的憎悪の感情に対する宗教的・道徳的正当性が与えられたと確信しました。しかし、アモスにとって、敵に対する神の干渉は、神がイスラエルに味方するということを意味しません。神がペリシテ人を罰するのは、ご自身の権威のためです。なぜなら、人間の品位を傷つけることは、神が望み秩序づけた諸民族共存を破壊するものだからでます。

旧約聖書講解