アモス書講解

2.アモス書1:1-2『アモス書の主題』

アモスが「テコアの牧者の一人であった」という説明と、ユダとイスラエルの王の名を挙げて時代を規定している1節の表題部分は、アモスを過去の人として回顧している。これは明らかに後代の編集者の手による注記であり、後代の読者を予想しての説明である。しかし1節後半の、「あの地震の二年前に、イスラエルについて示されたものである」という言葉は、おそらくアモス自身に由来すると考えられる。これは、「地震の二年前に」アモスがイスラエルについて見た幻と、地震の後、アモスが自ら記した記述とが結合し、今日の形において「アモス書」が残されていることを示している。

アモスが預言者としての召命を受けたのは、ヤロブアム2世の治下で北王国が最後の隆盛を謳歌していた時代である。その時代にアモスが北王国批判に立っていたことは注目に値する。アモスの出現の動機は、彼の時代の政治的あるいは文化的状況にあるのではない、もっと深いところに根差していた。

2節の審きの神顕現についての言葉は、文体的に1節の表題に結びついている。この言葉は、エルサレム神殿の祭儀伝承にさかのぼると考えられる。このエルサレム神殿の祭儀伝承にさかのぼる預言は、アモス自身のものであると思われるが、後のアモス書の編集者によってアモス預言の総括としてここ置かれたものと思われる。それは、アモスを彼の幻との関連から、審きとしての神顕現を預言する者として特色づけるためであり、アモスの預言の本質内容を、不可抗的な神の審きにあることを示すためだと思われる。それゆえ、2節は、アモスの全使信の基調音として、編集者はここに記している。ここで言われているのは、切迫した神の審きの下にある民族と国家の事態の決定的重大さである。この節は、主の審きが告げられる場所をエルサレムの神殿としているが、シナイ山における神顕現(出エジプト19:6参照)の記述に倣って、その轟きわたる声の前に自然の壮麗さも枯れ果ててしまう神の顕現を語っている。

いかなる者も神の前に自らを持ちこたえることはできない。神が自らを顕わす時、緑なす牧場は荒涼たる砂漠と化し、カルメル山の頂をかざる見事な森林も枯れてしまう。審きにおける神の圧倒的な威力の前で、いかなる地上的な価値も消失せざるを得ない。これが、アモスのさまざまな言葉の中で、多様な仕方で繰り返される究極主題である。

旧約聖書講解