詩編講解

57.詩編118篇 『慈しみはとこしえに』

この詩篇についてルターは、「これはわたしの愛する詩である。なぜなら、この詩は実にしばしばわたしを支え、幾多の大きな患難からわたしを助け出してくれたからだ。皇帝も王も知者も賢者も聖者も助けなかったであろう時に」と語っています。ルターがいうように、この詩は、信仰の力の確かな証として、信仰に生きようとする多くの人に大きな励ましを与えてきました。信仰の力は、神の助けを直接体験して与えられるものであり、感謝と喜ばしい献身によってあらゆる人間的困難と不安を克服することを、この詩篇は歌っています。このような信仰の力を明らかにすることによって、この詩篇は、困難な中にある人々に助けとなり、意気消沈している人々に信仰によって立ち直らせ、助け給う神の恵みへの信頼を喚起させる働きをしてきました。

この詩篇は大きく四つの部分に分けることが出来ます。

第一の部分は、1~4節で、導入の部です。
第二の部分は、5~21節で、個人の感謝の歌です。
第三の部分は、22~25節で、会衆の告白です。

そして、最後に、26節以下に、祭司たちが神殿に入る人々に祝福の言葉をかけ、会衆に祭壇の回りを踊るように求めています。

さて、第一の部分、1~4節の、導入の部を見ましょう。
これは礼拝式文の導入として、会衆の告白としてなされています。1節は、礼拝を導く役割を担う司式者によって告白されたことばであります。その告白の内容は、神の変わることなき憐れみと恵みの告白であります。そして、これがこの詩のテーマとなっています。この告白をするために、会衆は王と共に集います。

この感謝の礼拝に、様々なグループが参加しています。「恵み深い主に感謝せよ」と呼びかけられている第一のグループは、神に選ばれ契約の民とされたイスラエルです。第二のグループは、祭司である「アロンの家」です。そして、最後の第三のグループ「主を畏れる人」は、外国出身の改宗者たちです。

礼拝に集う会衆は、「慈しみはとこしえに」という同じ告白をすることによって、何の差別もない、等しい神の永遠の恵みの下に立つのであります。礼拝とは、そのような差別なき救いの恵みを、富む者も貧しき者も、身分の違いを超えて、ともに与かる場であります。

主の「慈しみはとこしえに」とは、時間の広がりだけでなく、宇宙的規模でそれがあらわされ、あらゆる人間的差別や垣根を超えてあることが明らかにされています。

そして、この告白の後、5~21節に個人の感謝の歌が続いています。
この感謝の歌は、患難のなかにあって願いが神に聞かれたこと、救われたことを脳裏に描いて歌われています。感謝の歌を歌っているのは王であります。王の関心は、神が彼になさったことを会衆の前で証しすることにあります。

それゆえ、「苦難のはざまから主を呼び求めると/主は答えてわたしを解き放たれた」と、王は、最初に苦難の中で聞かれた祈りの恵みを告白しています。

そして、彼の信仰の支えとなっている神への信頼を告白することからはじめます。もし神が味方であるならば、誰が敵しえようか。助け手である神が共にいますので、彼には恐れがありません。なぜなら、神が現れ給うとき、その神の前で、人は何もなすことが出来ないからです。そこで敵に向かい合っているのは、人ではなく神であられるからです。人は、神の偉大さを意識するにつれて、人間への恐れは消えていくのであります。

「人間に頼らず、主を避けどころとしよう」と歌う、神の偉大さを知る信仰は、人間を頼みとする心が消えていくのを知っています。信仰者にとって不動なものとして残るのは、神の側に立つという唯一の立場であります。人間が人間を頼みとする心の残り粕を捨て去り、地上の権力に頼ろうとする心を断念するとき、あらゆる人間的支えに頼ろうとする心が打ち砕かれ、神への信頼のみが生き生きとし始め、まことの信仰が育てられるのであります。

10~12節において、王は一方において、敵対者との出会いを語り、逃げ場のない恐怖と圧力を感じたことを告白しています。そして、もう一方において、神の救済行為の偉大さを告白しています。ここで王は、神の代理人として「主の名によって」勝利し、神の救いを民に保証する存在であるとの自己理解に立って、信仰の告白をしているのであります。しかし、王は自分を誇ることなく、勝利へと導かれた方の前に謙遜に身をかがめているのであります。

13~14節において、王の生命を狙う敵の人間的計画が神の助けによって挫折したことは、そのような人間の力による試みは常に神の前に破れ去るという認識に至らせることを告白しているのであります。神は王の砦であり、王の歌であり、王の救いであるのであります。

王に勝利をもたらすのは、「主の右の手」にほかなりません(15節)。
神の驚くべき救いに与かった王は、神から生が新しく贈られ、その生は新しい内容で満たされます。彼の新しい生は、神の力の偉大さを証し、神の意思に従い、神のために生きるべきであるという積極的な信仰が求められます。生命を与える神は、人に仕えることを求める神でもあるからであります(17,18節)。

そして、救われた喜び、感謝の歌を、神殿の門の前で王は歌います(19-21節)。

王の感謝の歌に続き、22節から会衆の告白が続きます。
王の身にふりかかることは、会衆の運命と信仰を左右します。
会衆は、王の身に起こったことを、家を建てる者が捨てた石が隅の親石となったと纏めています。王は人から見捨てられ、軽蔑され、迫害されたが、神によって救われ、認められ、特別重要な課題を新たに担わされるのであります。新約聖書は、これを、キリスト預言であると解釈しています。

王の告白と証しに導かれ、会衆は、救われた者に起こったことの中に、人間の業ではなく、神の働きを見ています。このようにして信仰の証しは、新しい信仰を呼び覚まし、信仰における喜びの交わりを造り出すのであります(24,25節)。

最後の26節以下において、祭司たちが神殿に入る人々に祝福の言葉をかけ、会衆に祭壇の回りを踊るように求めています。26節の最初の言葉は、イエスのエルサレム入場の時に用いられています(マタイ21章9節)。この最初の言葉は、王に向けられ、第二の言葉は、祭りに集う会衆に向けて語られています。この歌は、祝福は臨在し給うから主から「主の家」に来ると歌っています。祭司は、「主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方」という言葉を持って、今や祭司もまた王と同じ信仰を証しし、神を告白して、救われた者、告白する会衆の側に身を置くのであります。

そしてもう一度、感謝の歌でこの詩編は終わっています。この感謝にふさわしい主の恵みが全ての人の前に輝き出ているので、そこから多くの慰めを与えられています。主の恵みに感謝する信仰者に、「慈しみはとこしえに」与えられることを告げ、この詩篇は結ばれているのであります。

主イエスのエルサレム入場の言葉として引用されて26節の言葉と併せてこの結びの言葉と読むとき、苦難の中を生きる者に与えられる主の慈しみの御手に感謝して、主から与えられた新しき命を、喜び生きるようにとの、派遣の言葉として聞くことができます。

旧約聖書講解