詩編講解

18.詩編第24篇『門よ上がれ』

詩編24篇は、神を尋ね求める者たちのあり方を教えています。この詩篇は道徳的完全を教えているのではありません。信仰者とは、神への開かれた魂を持ち、絶えず神の義と救いを慕い求める者であることを教えています。さらに、信仰者の群れである教会に来たりたもう主が、また信仰者のために戦いたもう勇者であって、永遠者にいまし、全世界の創造者であり、保持者であり、支配者であることを告げています。そして、信仰者の群れが大いなる者の到来に自らを絶えず明け渡すことを教えます。

この詩は礼拝祭儀の場で歌われる典礼歌です。この典礼歌は四つの部分から成り立っています。第一段落は1-2節で、開会の賛美です。第二段落は3-6節で、礼拝者の資格、宣誓です。第三段落は7-8節で、神が王として到来される神王到来の典礼です。そして、第四段落は9-10節で、祭司と礼拝者の交唱となっています。

第一段落の1-2節において開会の賛美がなされますが、それは、神王ヤハウェの全世界支配への告白です。

「地とそこに満ちるもの 世界とそこに住むものは、主のもの」という告白は、人の造る宮に神を制限することは出来ないという思想が表明されています。なぜなら、この告白において、ヤハウェは世界全体の所有者であり、これを支配する方であるということが明らかにされているからです。

「世界」(テーベール)は、本来、耕地とか居住地のこと指しています。「そこに住むもの」とは、とくに人間を指しています。つまり、1節の第一行は、自然世界を指し、第二行は文化世界を指して、自然界も文化世界も一切がヤハウェの所有、支配の下にあるという神の主権に対する信仰が表明されているのであります。

2節は、ヤハウェの世界支配の根拠が何であるかを示しています。その根拠は、「主は、大海の上に地の基を置き」と歌われているように、ヤハウェが世界創造者であるということにあります。「大海の上に」「潮の流れの上に」と歌われていますが、ここには古代人が描いた大地の姿が歌われています。古代人は大地を混沌の渦巻く原始の海に基を置く浮島のようなものとして捉えました。それ故、世界は絶えず混沌に陥る危険に囲まれていました。しかし、その混沌の海のうえに基を置き世界を築かれたのは神です。ですから、そこに住む人間の生の確かさは、この神の支配を承認し、それを告白し賛美することによって得られる、これがこの篇において歌われている信仰です。

それ故、神賛美の中に示されるヤハウェを仰ぎ見て、礼拝に参列する者は、「どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか」と問い掛けを始めざるを得ません。ここに礼拝者の資格が問われ、礼拝を守るための宣誓が行われます。3-6節はそのような礼拝者の資格を問う問いであり、宣誓であります。

「主の山に上る」とは、本来巡礼の行進のことであります。6節に歌われているように、巡礼者としてあることは、主を求め、御顔を尋ね求めて求道者として生きることであります。求道者は真実に問いかけているのであります。

礼拝参列者の資格を問う問いかけに対する祭司の答えが4、5節に記されています。「それは、潔白な手と清い心を持つ人」であるとまず答えられています。それは、外的な行動と内的な思いとが、ともに汚れなく、行動と思考の間に分裂がなく、裏表のないということであります。

第二は、「むなしいものに魂を奪われることのない」ことであると答えられています。この場合「むなしいもの」とは、契約共同体を崩壊させる事態、特に呪術を指します。これを偶像と解することも出来ます。

第三は、「欺くものによって誓うことをしない」ことであると答えられています。裁判における偽証は、主の正義を曲げ、人と人との信頼関係を損ね、契約共同体を崩壊させる事態を招きます。

神が礼拝において人に求めておられるのは、心からの誠実な礼拝する態度であり行動であります。そして、主はそのような礼拝者を祝福し恵みを与えられると答えられます。主の祝福と恵みは、礼拝するものが求めて止まないものであります。それはただ、救いの神である主なるヤハウェからのみ与えられるものであります。人間は誠実、清廉な生を追い求めねばなりません。そして、それは究極においては、救いの神より賜る義と祝福に関わります。それに与かることのできる人は、そのような誠実な清廉な生を追い求めて聖所に巡礼し、主を求め、御顔を尋ね求める人に他ならないと6節において答えられているのであります。

「ヤコブの神よ」と、礼拝者は、イスラエルの救済史の中で示された神名を唱えて、自らが御顔を尋ね求める者であることを宣誓します。ヤコブ自身は、必ずしも常に人に対して誠実な人間であったわけでありません。しかし、心の根本において神の祝福を求めることに対しては誠実でありました。主の祝福だけを願うその心の根本姿勢の必要なことを、「ヤコブの神よ」という呼びかけの言葉が示しているのであります。

しかし、このような礼拝者の態度がいかに神に開かれていようとも、神の臨在のない礼拝は、全く空しい茶番と化してしまいます。神の臨在こそ礼拝の不可欠の要素であり、祝福の源であります。それ故、聖所における神の降臨、顕現の宣言は、礼拝成立のもっとも重要な要素であります。そこで7節において、合唱隊は、「城門よ、頭を上げよ とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる」と、王なる主の降臨を告げています。命を持たない石の門に向かって「頭を上げよ」と命ずるのは、詩的言語の大胆さを示すとともに、力ある神を迎えるのに、人間の手で造られた門は小さすぎるという、いっさいの地上的制約を受けない超越する力強い神観念をあらわしているのであります。

けれども、聖所の門は誰に対しても開かれているわけではありません。聖所の内側にあって仕える祭司からも、「栄光に輝く王とは誰か」と問いが発せられています。これに対する伝令の答えは、「強く雄々しい主、雄々しく戦われる主」というものであります。ほぼ同じことばでもう一度、命令と問いが交わされています。会衆一同は固唾をのんで神の名を聞く一瞬を待ち望んでいます。そして、その名が響いたとき扉が開かれます。今こそ門は大きく開かれます。栄光のうちに聖所の会衆の前に現れたもう神を迎え入れるためにであります。これは祭儀の場における礼拝のドラマとして行われます。それは神の降臨という厳粛な瞬間に先立つものであります。会衆が祭りのクライマックスを迎えるべく道を備えているのであります。

旧約時代を生きる聖徒たちは、礼拝祭儀の場で、このように神の降臨と臨在を祈り求めました。そこには、人間の歴史の中に神が救いを実現された過去の信仰の体験をもとにした、今ここに現在を生きる人間に、神が今同じ力と救いをあらわしてくださるという信仰と期待からなされる礼拝として守られているのであります。その場に臨む信仰者にとって、未来もまた神に成就されることを信じるがゆえに、その救いをも先取りされているのであります。今ここにおける礼拝の場における神の降臨と臨在を祈り求めることは、昔いまし、今いまし、のちに来たり給う神への信仰をあらわしているのであります。

そしてそれは、毎年、イエス・キリストにおける神の降臨を祝う私たちと同じ信仰に繋がっているのであります。神の降臨と臨在なき礼拝は無力です。また、「城門よ、頭を上げよ とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる」と祈り求めない礼拝も無力です。神は礼拝の場へと降りてこられます。そして、その礼拝の場に臨在されるのであります。「城門よ、頭を上げよ とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる」という真実な祈りのあるところに、神は降臨と臨在を明らかにされるのであります。私ちは、この恵みの神に自己を解放し委ねて礼拝を守ることが許されているのであります。

旧約聖書講解