詩編講解

14.詩篇第16篇『神のもとにある喜び』

この詩篇は、神に対する信頼を公に言い表す信仰告白の形を取っています。
祈り手はまず、神の加護を乞い願うことによって祈りを始めています。けれども、それは彼が逆境にあって救いを求めていたからでありません。この詩全体を貫いている響きは、神とそのまったき救いに対する喜びの感謝です。この祈り手は、ここで、神が今まで守ってくれたように、将来も守ってくださるようにと祈っています。彼は神殿における神の臨在に包まれて、自分が現に神の手に守られていることを実感しつつ祈っています。それは、彼の深い信仰の経験から出た祈りです。信仰の正しい歩みをする人は、繰り返し神のみ腕に戻って行き、神と語り合うようになります。神との絶えざる交わりこそ、信仰に生きる者の自然な姿なのです。

「あなたはわたしの主」(2節)、これこそ神殿で神とまみえる際のふさわしい信仰告白です。神こそが、これまで常に彼を支える礎でありました。神を己が主と認めることは、神の要求も配慮も含め、全てを受け入れることを意味します。それゆえ、彼は神の配慮について思いを深めつつ、「あなたのほかにわたしの幸いはありません」と言葉を続けます。詩人にとって神は、「最上の宝」であるばかりでありません。神こそは唯一の善、まったき救いそのものです。神との関係が人の生命の全てを満たすものです。

信ずる者が神の支配を受け入れるとは何を意味するのでしょうか。神の配慮、神の愛は、神の求める義と一体です。それゆえ、ヤハウェは、ヤハウェを信じる者が他の神と関係を持つことを許しません。この詩人は、そのことをわきまえています。神と係わること以外、全てを排除することこそが真の幸福であるとすれば、異教の偶像の神との結びつきは、不幸と悲しみをもたらすだけです。まことの神であるヤハウェとの関係から生じないことは、すべて罪となります。この真の関係を潔く保つべしという要求は、人間性全体を包括する神との親密な交わりの中から生まれてきます。この詩人は、異教の神々を追い求める同胞たちとの間に厳しい一線を引いています。彼の思いは完全に神に向けられています。それゆえ、彼は、ほかの神の後を追い、偶像の祭儀に加わり、異教の神の名を口にすることから守られています。

詩人は、さらに、「主はわたしに与えられた分、わたしの杯」(5節)と告白します。「杯」は、祭儀の食事の際に参加者のあいだで回されるヤハウェの「祭りの杯」です。それは、神の救いの恵みを表す象徴であると同時に、保証のしるしでもありました。そして、「主はわたしの運命を支える方」(5節)と言うことによって、彼は、自分の運命が永久に神に結び付けられており、神を抜きにして自分の生を考えることができないと告白しています。

感謝と喜びをもって神の導きを仰ぐ者は、この地上の財産を、神の恩恵の証として見ることができるようになります。神への信仰によって、ものの価値を計る「測り縄」も与えられます。そして、財産を、神の手によって贈られた「輝かしい嗣業」として、喜びと満足をもって受け取ることができます。

彼は自分の歩みをふりかえることによって、神のさとしがいかに恵み豊かに自分を導いてきたことか、感謝をもって悟ることができました。夜の静寂に、詩人は、神の内なる促しの声をはっきりと聞きます。祈りをもって神の御前に歩みでよ、と。詩人にとって、祈りは信仰の歩みに不可欠です。彼は神の目の届かないところで生きていくことはできません。それゆえ、祈りは、自分の願いだけをくどくどと神の前に並べ立てる場ではありません。祈りとは、神の助言と懲らしめによって、現にある自分を越えた姿に高められていくための場となります。それは、信仰生活の鍛練の場なのです。

わたしは絶えず主に相対しています。
主は右にいまし
わたしは揺らぐことがありません。」(8節)

この告白は、詩人が絶えず自分を神の眼の前におき、また自分の経験と行いの一切において、自分が神の前におかれていることを表明しています。これは神の臨在に圧倒されている者の告白です。神との出会い、祈りにおける交わりの中から、神との生命の交わりが生まれてきます。神が彼の右におられる限り、彼は揺らぐことがありません。信仰者は、危機の最中で神の救いを確信し、自己の決断に際しては、神の助言と導きを確信することが許されています。

神との生命の交わりを確信することによって、詩人の心は喜びに満たされ、「わたしの心は喜び、からだは安心して憩います」(9節)と歓呼の声を上げます。彼は自分のからだと魂が、将来においても神のみ腕に匿われていることを確信しているからです。注目すべきことに、詩人の思いが死に向けられたその瞬間において、この楽観主義の信仰を表明しています。彼が死に向かう厳しい現実に直面しているかどうかは判りません。けれども、彼の思いは死に直面しています。しかし、その中で、彼は自分のからだと魂が、将来においても神のみ腕に匿われているという喜びと確信のゆえに、心は不安を覚えることなく、いっそう神への信頼を新たにします。

「墓穴」と訳されたヘブル語の語根は「朽ちる」から派生した語です。したがって、ここから、死からの復活の思想を読み取ることができます。しかし、復活信仰は、本来農耕の神々の祭儀において培われたものでありました。したがって、詩人は、異教の習慣と戦うものとして、復活信仰の受容によって異教徒の誹りを受けたくありません。彼の信仰において、いかなる形で死から免れうるかという詮索よりも、それは必ずなされるという「事実」のほうが大切でありました。

彼は、死の克服を信じています。しかし彼は、復活とはまったく別の基盤からこの確信に到達しました。そして、この信仰の基盤は、この詩全体を貫いており、詩人の信仰の強い楽観主義を支える土台としてその姿を現しました。神との生命の交わりこそ、詩人を支える基盤なのです。神と共に生きる生が全身全霊を包み込むとき、死は事実上、その呪縛力を失います。死によって一切が終わると見る人生観を持つ人に対してのみ、死は猛威をふるうことができます。この詩人に死への問いが背後に退いているのは、生きていたいという本能的な欲求を抑えきることができないからではありません。神との交わりによって、地上の生を超えた豊かな生命がほとばしり出るからです。

生命をみる宗教的な目が深められることによって、死の問題は、詩人には、決定的ではなくなってしまい、克服されています。詩人は、生命を授けたもう神の力に与かることが許されています。それゆえ死も陰府も、神との生命の交わりを妨げることはできません。神より与えられるこの生命のうちに、死を克服する勝利の力が潜んでいます。

10節は使徒言行録2章25-27節に引用され、イエスの復活を預言する言葉として理解されています。しかし、この詩篇の文脈において、10節はイエスの復活を預言する言葉ではありません。しかし、新約における復活信仰と、この詩人の信仰は、同じ基盤のうえに立っています。どちらも神の生ける力に対する確固とした揺るぎない信仰を支えとしています。キリストの復活において死を決定的に克服したのは、神のこの力にほかなりません。

神によって死が克服されるという「事実」こそ、この詩人の確信を支える堅固な土台です。この確信に立って詩人は死を見据えることができます。具体的にいかなる形で克服されるのか、それを彼は知りません。それは、依然として隠されたままの、神の秘密です。けれども彼は、「命の道を教えてくださいます」といって神への信頼を保ちます。「命の道」とは、この場合、死を越えて継続される神との生ける交わり、と理解されています。神が手ずから彼のために備えられた喜びは永久に続きます。神の生ける力に対するこのような喜ばしい肯定のうちに、聖書の信仰の底力が潜んでいます。この信仰は、死をも含めた生の全ての現実に対して、積極的な信仰をもってかかわることを可能にします。聖書の信仰は、この積極的な姿勢の故に、他の諸宗教を凌駕しているのです。

旧約聖書講解