詩編講解

8.詩篇第8篇『主の御名は力強く』

詩編8篇は、広大無辺の天の広がりが全世界を包み込んでいるように、ヤハウェの主権と栄光が全地に満ちている、という賛美で始まり、同じ賛美の言葉で結ばれています。ヤハウェの御名を賛美するのは、祭儀の場に臨む会衆です。この詩篇を流れている基調音は会衆の賛美です。そして、神に対する畏れと喜びによって、この詩全体の調べが織りなされています。

自分たちの神の栄光が全地に及ぶと断言し告白することは、小さな国にしかすぎないイスラエルの民にとって、それは大胆な信仰を意味していました。イスラエルの神の支配と勢力はあくまでイスラエル王国の範囲内に限定されている、というのが当時の古代世界の一般的な考え方でありました。周囲の国々ではそれぞれ異邦の神々が礼拝されていました。多神論的な世界では、神にも縄張りがあるという考えが一般的でした。

しかし、神と国家の支配領域を同一視するこのような考え方に対して、旧約聖書の信仰は闘いを挑みます。神の民イスラエルを選ばれたヤハウェは、イスラエルを救う神ですが、ヤハウェは、ほかならぬ全世界の支配者であり、全被造物の創造者であられるという告白は、旧約聖書全体に貫かれています。

この詩人は、この世界を包括して支配される神の生きた現実の前に驚嘆しつつ佇み、神の御業について思いめぐらしています。

彼は夜の星空を見上げているうちに、驚嘆の念にうたれました。そして、彼の眼差しは更に深いところへと向けられていきました。彼の内なる眼は天にきらめく星空の背後に、これら一切を創造された方を見、その御名を褒め称えました。

今日、都会に住む者には想像がつかないかもしれませんが、私は、台風の過ぎ去ったすぐ後に、北アルプスの大日岳という山に登ったことがあります。その山頂から見た夜空は満点の星の輝きでした。私は余りの美しさに声も出さずに見入っていました。この詩人が「天に輝くあなたの威光をたたえます」と歌った、星空の輝きは、そのようなものではなかったかと思います。神の栄光はこのような自然の美しい輝きの中に啓示され、御名の力と支配はその中に表されます。

ここで詩人の眼は一転して、か弱い幼子や乳飲み子に向けられます。神の威光を眼前にして、この詩人は、嬰児のように口籠もるしかありませんでした。神とその御業の偉大さの前に彼はうち震えるしかありませんでした。しかし、神とその御業の偉大さの前にうち震えることこそ、まことの礼拝です。神の偉大さは、この小さき者、取るに足りないものにおいてこそ、明らかにされるのです。

マタイによる福音書21章16節に、この3節の言葉が引用されております。イエスのエルサレム入場に際して、幼児らの歓声を表す言葉として用いられています。使徒パウロがIコリント1:28で言っていますように、「神は地位ある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれる」お方です。

詩人は、「あなたの天を、あなたの指の業を わたしは仰ぎます」といって、果てしない宇宙と満天の星を仰ぎ、その圧倒的な印象にうたれて佇んでいます。神の「指」は神の行為を意味します。古代近東の世界では、天体には神性が宿ると理解され、信仰の対象とされていました。しかし、この詩人は、「月も、星も、あなたが配置なさったもの」といって神の指の業を洞察し、天体から神性を剥奪し、それをヤハウェが造られたものと告白しています。真の宗教としてのヤハウェ宗教が近東諸宗教を非宗教化した例がここに見られます。

詩人はこの威力ある神の御業を仰ぎ見て、彼の思いは、今度は地に向けます。神の愛顧の下にある、神に創造された人間に向けます。人間は神の啓示に打たれ、深い感銘を受けることによって始めて、自分自身を正しく知るように導かれます。

聖書では、神の啓示と、人間が自分の存在が何であるかを知ることとは、常に表裏一体をなすものと考えられています。神の啓示が臨むとき、人間の本質も特別な光の中にさらされるほかありません。神を無視して、人間についての正しい理解はありえません。神の視点から見ることによって、人間は初めて神と人間の決定的な違いを悟ることができます。そして、その正しい秤で自分自身を見つめることができます。この認識もまた信仰に属します。

詩人は、「人間は何者なのでしょう」と問いかけています。これと同じ文体が詩篇144:3とヨブ記7:17に見られます。詩篇144篇は王の詩篇と呼ばれていますが、詩篇89:48の場合と同じく、哀歌の文脈の中で、人間の弱さを承認し、創造者であられる主に訴えて神の助けを求めます。他方、ヨブ記7章17節の「人間とは何なのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし、これに心を向けられるのか。」という言葉は、明らかに詩篇8:5を知っていたと思われます。ヨブは激しい苦痛の中で死を求め、この詩篇8篇の神の愛顧を曲解し、神を見張りか監視と考えています。しかし、詩篇第8篇5節は、素直な神の愛顧の承認であり、感謝であり、賛美であります。

「人の子」は、ヘブル語でベン・アーダームです。アーダームとは、赤い土に由来します。地に結びついた、死すべき存在であることを示しています。この詩人は、人間が死すべき存在であり、土の塵から生まれたものであることを強調しています。「子」は同時にひとりひとりの人間の問題として考えられています。この正しい人間理解は、正しい神理解から生まれます。全能の神にとって、人間を心に留め、ねんごろに世話するのは決して些細なことではありません。「御心に留める」とは、あわれみと親切とをもって悩みの中にある者を憶えることです。「顧みる」とは、親切に身を入れ、あわれみをもって訪れることです。人間に対する神の関わりは、はかり知れぬ恵みにほかなりません。

5節は、「人間とは何と虚しい者か」という詠嘆を表明しているのでありません。あるいは広大な天と対比して、人間の無力さ、弱さを表明しているのでもありません。ここには、弱い無力な人間に対する神のあわれみと愛顧への驚異と感嘆と賛美が表明されています。

創造の栄光は、被造物の低さを通してのみ認識される、というのが聖書における創造信仰の特色であります。パウロはIコリント15:10において「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」と告白していますが、このようなあり方においてのみ、私たちの信仰は、人間的な思い上がりが生じる危険から守られています。

地に結びついた死すべきちっぽけな存在である人間が、「神に僅かに劣るものとして」(6節)造られ、神によって地上の支配者として定められるとは、この詩人にとって驚きであり、奇跡でしかありません。神が人間の地位をご自分より「僅かに劣るもの」とされるのでなければ、人間の地位は全く神と同等になってしまうことになるでしょう。

「栄光と威光」とは、王である神ヤハウェの現臨の様を示しています。そしてそれは、ヤハウェによって地上の王に付与される資質でもあります。このような王者の持つ資質を、ヤハウェは人間に冠せられるのです。「冠としていだかせ」は、王冠を戴冠させることです。王冠を戴冠させられた人間は、創造者によってその創造の業の支配権を委託させられます。7節において、「すべて」が強調されて用いられています。神の愛による信頼と委託の結果です。それは何の留保もなしに委ねられています。

「その足もとに」とは、王が敵を足下に屈伏させるときの表現です。
この詩篇は、自然を褒め称える歌でも人間賛歌でもありません。ヘブル語の本文では6節以下の主語は一貫してヤハウェです。この点を注意してみなければなりません。人間論がこの詩の独立した主題となっているのではありません。小さな弱い人間を顧み、人間に「神のかたち」を付与し、王者としての支配権を委任した神の大いなる業への賛美がこの詩の中心に流れています。この人間が世界のうちにあり、これを支配しつつ、神の前に立ち、その下にあることを、この詩篇の作者が正しく認識していることは重要です。

そして、新約聖書で5、7節がメシア預言として理解されていることも注目しなければなりません。ヘブル書2:6-8とIコリント15:27は、詩編第8篇に終末時のメシアなる主イエスの姿をみています。主イエスが人間の存在と位置とを真に具現されているとの深く、力強い信仰がここに表されている、との理解を示しているのであります。

旧約聖書講解