詩編講解

3.詩篇第3篇『朝の祈り』

1節に付されているこの表題によれば、この詩はダビデが反乱を起こしたその息子アブシャロムから逃れたときに作られたことになっています。しかし、この表題は後の時代に付けられたものです。それゆえ、これが実際、ダビデの詩で、そのような状況の中で作られたものであるかどうかを、証明することも否定することもできません。はっきりしていることは、この詩の祈り手が権力者の一人(王)であるらしく、敵の軍勢の前で絶望的な状況におかれているということだけです。おそらくこの詩は、王の祭儀に関係したものであろうと言われています。王の祭儀においては、敵に対する戦いは、ヤハウェ自身の戦いであるという考え方が、救済史の枠組みをなしています。この枠組みが、祈り手の置かれている特殊な状況を理解するうえで重要な手掛かりを与えてくれます。

「主よ、わたしを苦しめる者は、どこまで増えるのでしょうか」という嘆きによって、祈り手は、彼の直面している困難な状況を神に訴えています。彼を苦しめ不安に陥れているのは、彼に刃向かう大勢の敵だけではありません。これまで彼に味方していた友人たちも彼を見離し、友人たちは、神ではなく、人の助けをあてにするものとなり、神の救いに対する信仰を捨ててしまったのです。だから、この祈り手は、たった一人で信仰の試練を受けています。彼はただ一人となりました。しかし、彼は決して屈しません。人々から見捨てられることによって、彼はなおさら強く神にすがりつくのです。この祈り手は、自分の苦しみに対して神が耳を開いてくださるという信仰を固く持っています。

私たちが試練にあい、人々から罵られるようなことがあるなら、どうでしょう。昨日まで友であった者が敵に与し、一緒になって罵られるほど辛い経験はありません。そのような苦しみの中では、祈ること自体が信仰の戦いです。その中で、自分の苦しみに対して神が耳を開いてくださるという信仰を持っていないと祈ることができません。祈り手は、どんなに小さくてもその信仰を自分の中に見出すことができたとき、それだけでもう既に、心に重くのしかかる不安は軽くされます。

友人たちは「彼に神の救いなどあるものか」(3節)と、神の救いを疑っています。神の救いを疑ったから、彼を見捨てたのです。しかし、彼は見捨てられることによって、「主よ、それでも」といって、粘り強い信仰に呼び覚まされました。

戦いのない平和な時代、友との関係がうまく行っているときには、信仰の自覚がなくても信仰者としてのそれなりの歩みができます。しかし、本当に自分は神を信じて生きているのか、その自覚なしで歩みやすいのです。

この祈り手の友は、危機に直面して、神の救いを疑い、信仰を捨て、彼を捨て、「彼に神の救いなどあるものか」と罵るものとなりました。彼は、友人から、そのように罵られることによって、初めて本当に自分が神を信じているのかを問われたのです。信仰は、見た目には否定的な事実ばかり揃っているところで問われます。しかし、そのような状況の中で、全力を尽くして、大胆に神への信頼を告白し、神の御腕の中に飛び込んでいく、神にすべてを委ねきる、それが真の信仰です。人間的な有利さ、不利さを一切計算に入れないで、己に死に、神に生きるのです。神こそが隠れ家であり、すべての危険から身を守る楯であると告白して委ねきるのです。この詩人は、そうすることによって、誰からも奪われることのない栄誉を、神御自身の中に見出すことができました。こうして彼は、神を「わたしの頭を高くあげてくださる方」(4節)であることを知るに至りました。そのようにして彼は、神が自分の栄誉を人々の前で回復してくださるということを確信するのです。

この詩人は、自らの絶望的な状況を意志の力で拒むことによって、このような信仰にたどりついたのでありません。信仰は意志の強さではないのです。わたしたちはときどきそのような誤解をすることがあるかもしれません。しかし、信仰と意志とは違います。信仰は意志を強くする修錬によって生まれるものではないのです。この詩人の神に対する信頼は、日々の豊かな祈りによって培われ、土台を与えられていきました。

「主に向かって声をあげれば、聖なる山から答えてくださいます。」(5節)
ヤハウェは聖なる山シオンから彼の祈りを聞き入れられるのです。詩人は信徒たちの集いの前で、そのように告白することによって、そのような聖なる時間を想い出し、かつて与えられてきた経験の中から、いまなお挫けぬ希望の力を与えられたのです。定めのときに、欠かさず、絶えず持つ主との交わり、神礼拝が弱りそうな詩人の信仰を下から支え、神への信頼の中に立たせ続けるのです。

こうした経験は、無事に切り抜けた昨夜のことを考えてみるとさらに確実になります。この詩人は、神の懐に抱かれていることを感じつつ、床に就きました。不安な夜はなかなか眠りに就くことができません。微かな物音でもびくっくりしてすぐ目が覚めます。しかし、私たちの信仰が神の懐に抱かれている自分をはっきりととらえることができたなら、どのような危険が取り囲んでいようとも、安らかに床について眠ることができます。

「身を横たえて眠り わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます」(6節)。この言葉には、詩人の信仰からでる平安に満たされた思いが溢れ出ています。詩人は、再びこうして朝の光を見ることが許され、それが神の守りに支えられていることの明白な証拠である、と信仰の目で見ているのです。

信仰の目でこの事実を見た詩人は、さらに「いかに多くの民に包囲されても 決して恐れません」(7節)と告白します。彼には、神の力によって支えられている以上、何も恐れる必要がありません。神と同盟を結んだからには、彼は四方八方から自分に迫ってくる敵の大軍に大胆に立ち向かうことができます。詩人に勇気と力を与えることができるのは、神の導きと支配を信じる信仰のみです。

今や、詩人は揺るぎない確信を得るに至りました。そして、この確信に立って、彼は神に救いを祈り求めます。それは、あらゆる策を労して、万策尽きて仕方なしに祈る祈りではありません。この朝の祈りは、必ず聞き届けられることを確信した祈りです。

祈り手がこのように祈れるのは、ヤハウェがなされる救済史を見ているからです。ヤハウェは、祈り手が現に直面している敵も含めて、すべての敵と神なき者たちに勝利されるお方であるからです。神は既に敵を打ち負かされた。神の救い、神の平和は既に実現しています。その救済史の事実は、過去のことで終わっているのでなく、現在も、そして未来においても貫き通されているのです。この救済に与かる人間は、絶えずそれを祈り求め、待ち望むことができるのです。

神はこの歴史の中で生きて働かれる、救いは常に主の下にある、神にこそ救いがある、神にのみ救いがある、神のほかに救い主なるものは存在せず、人が絶対的に信頼を寄せられるものは神以外にない、いっさいは神の祝福に掛かっている、これがこの詩人の到達した信仰です。

この祈り手は王です。彼は最後に神の民に対する祝福を祈り、会衆とともに神の救いに入れられます。神を信ずる者たちの救いは、神をけがす悪人たちに対する神の審きと同時に行われるというのは、詩篇全体を通して告白されている信仰です。「あなたの祝福が あなたの民の上にありますように」(9節)という民全体に対する祝福の祈りにおいて、祈り手は信仰共同体と一つに結びつきます。この祈りとともに、この歌は信頼と希望に満ちた力強い響きを伝えて閉じられています。

この祈りにおいて、詩人はメシアなる王を指し示しています。

旧約聖書講解