列王記講解

33.列王記下22:1-23:30『律法の書の発見とヨシヤの宗教改革』

この箇所には、ヨシヤ王の治世のことが書かれています。列王記の編集者は、「彼は主の目にかなう正しいことを行い、父祖ダビデの道をそのまま歩み、右にも左にもそれなかった。」(22:2)「彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった。」(23:25)とヨシヤの治世に対して、最高の評価をしています。それは、ヒゼキヤに与えられたのと同じで、列王記に登場するどの王よりも、この二人の王は高い評価を与えられ、ダビデと比肩する高さで評価されています。それは、この二人の王が、エルサレム神殿の改革を遂行したからです。実際には、ヨシヤの方が、ヒゼキヤよりもより重要視されています。

申命記史家である列王記の記者は、神殿と律法への関わりにおいて、王の主への信仰を見、そこから王の治世全般を評価していますので、実際の政治的手腕などは、あまり考慮されていません。その意味でいうと、列王記上のヒーローは、エルサレム神殿の創建者ソロモンで、列王記下のヒーローは、このヨシヤ王ということになります。なぜなら、ヨシヤこそ、幾世代にも及び、間違った異教的礼拝の影響によって堕落し、契約の民を結びつける力を失っていた神殿を、当初の目的に戻すために、根本的な改革を遂行した王であるからです。神殿の創建と、徹底した改革という点において、列王記は、この二人の王を、歴史から学ぶべき最も重要な人物としています。この二人は、イスラエルが神の民となるため創造されたことを、神殿とのかかわりにおいて具現した王でありました。神殿創建は、こうした関係を、聖礼典として表現するための場所を得るためになされたのであったので、神殿の間違った礼拝を容認することは、民が自分たちの召命を拒否していることを示す、外的しるしとなりました。

列王記の記述は、ヨシヤ王の神殿改革が、律法の書発見以前から始められていたことを示し、その中で律法の書の発見がなされ、改革の方向を決定づけ、徹底させる拍車をかけることになった事実を、ありのまま報告しています。しかし、ヨシヤの改革の失敗と、彼の戦死を記し、その改革の問題と課題を示しています。

列王記は、エルサレムとユダの滅亡後に執筆されました。ここに記されている、彼らの歴史とその教訓は、捕囚の民のために意図されたものです。列王記は、王たちの挫折の教訓から、民の主なる神への忠実と信実が、共同体を再建する道を学ばせ、新しい世代を将来に準備するために記された書であります。

ソロモンもヨシヤも、多くの罪を犯し、国の将来の多くの問題を残した王であることに違いありません。注意して読むと、そのことはよく判ります。しかし、列王記が、この二人を理想の王とするのは次の理由からです。ソロモンは、イスラエルが存立するために必要とした、一つの建物の創建者であり、ヨシヤはその建物を、将来、その目的に忠実にし続ける律法の書の「擁護者」であった、これらの点で、この二人の王は、捕囚の民に対して、そこから学ぶべき偉大な英雄であったからです。ヨシヤがヒゼキヤより偉大で、実際上重視されたと前述したのは、ヨシヤの改革が神殿の偶像除去に留まらないで、律法の書を発見し、それを後の世代における持続的な信仰を育てるものとした、影響力の大きさの故です。ヒゼキヤの改革は、何ら持続的な影響をもたらさずに終わりました。マナセの反動的な偶像化への逆行政策は、その影響力を一掃するものでありました。ヨシヤの改革もまた、後継者たちの同じような政策によって否定され、その影響力は失われました。しかし、ヨシヤの場合、律法の書が残り、紀元前587年のエルサレムの滅亡、祖国の喪失、バビロン捕囚後も、民の中に永続的な希望が、律法の書と共に残ることになりました。エルサレムの滅亡、祖国の喪失、バビロン捕囚という未曾有の体験は、主の契約の民として創造されるべき本来の場から切り離され、イスラエルが自らのアイデンティティを異国の地で求めるとすれば、それを求める者として残ったのは、律法の書と預言者たちの言葉だけでありました。ヨシヤは、政治的にはそれほど傑出した有能な王でもなかったかもしれませんが、彼は、律法の書を捕囚世代に残した王として、覚えられねばならなかったのです。

列王記は、ヨシヤの治世を、周囲の国の歴史と関連付けていませんが、実際には、周囲の国の歴史が、ヨシヤの治世を決定づける、大きな役割を果たしました。ヨシヤは、前640年に、マナセの息子アモンがあまりはっきりしない理由で家臣たちの謀反により暗殺され、反乱の拡大を恐れる「国の民」が、彼ら謀反者を討ち、国の指導者として僅か8歳のアモンの子ヨシヤをユダの王とした事情が、21章後半から22章前半にかけて簡単に記されています。そして、ヨシヤの治世第18年に、律法の書の発見の事実が報告されています。それは、前622年ないし前621年のことです。このヨシヤの治世の時代、即ち前7世紀後半は、2世紀以上にわたりメソポタミヤを支配したアッシリアの勢力が、急速に衰退していった時期です。バビロンが反逆し、アッシリア帝国を滅ぼし、自力でそれにとって代わり、新バビロニヤ王国を建設し、メソポタミヤを支配しました。ヨシヤは、アッシリアが弱体な時に王位にありましたので、北のアッシリアと新バビロニヤとの覇権争いは、パレスチナ周辺の国にとって、行動の自由が与えられた、束の間の平和な時代であったわけです。

ヨシヤは、この間隙を縫って政治改革を行い、ベテルやサマリアという古い北方の領土の権利を主張し、ダビデ・ソロモンの統一王国を回復する戦いを繰り広げました。しかし彼は、ダビデほど政治的・軍事的手腕に秀でていたわけでないので、これらの政策は失敗に終わりました。ヨシヤの神殿改革は、最初は国家主義的政策の一環として、企図されたのかもしれません。23章4節におけるベテルの言及や、同19節のサマリアの町々における高台にある神殿の除去の言及は、ヨシヤ王が実際上これらの地域を支配するに至っていたことを証するものです。

これらの地域にまで改革を徹底し、イスラエルの契約共同体としての信仰の一致を求めるヨシヤ王の熱情は、律法の書の発見による、ヨシヤ王自身の信仰的覚醒(リバイバル)がもとになっています。このとき発見された「律法の書」は、「申命記」の基幹部分をなすものであったと思われます。ヨシヤ王は、書記官シャファンから、祭司ヒルキヤが主の神殿で律法の書を発見したこと、その発見した律法の書を手渡された事実を知らされました。その際、シャファンは王の前で、その書を読み上げ、王はその言葉を聞くと、衣を裂き、罪の嘆きと悔い改めを表したことが、22章11節に報告されています。そしてヨシヤは、「この見つかった書の言葉について、わたしのため、民のため、ユダ全体のために、主の御旨を尋ねに行け。我々の先祖がこの書の言葉に耳を傾けず、我々についてそこに記されたとおりにすべての事を行わなかったために、我々に向かって燃え上がった主の怒りは激しいからだ。」(22:13)と家臣たちに命じました。

そして、王の命を受け、祭司ヒルキヤたちは、女預言者フルダのもとに行き、主の託宣を求めますが、フルダが伝えたのは、これらの書が告げる災いが、住民に下されるということです。ユダの王については、「わたしがこの所とその住民につき、それが荒れ果て呪われたものとなると言ったのを聞いて、あなたは心を痛め、主の前にへりくだり、衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしはあなたの願いを聞き入れた、と主は言われる。それゆえ、見よ、わたしはあなたを先祖の数に加える。あなたは安らかに息を引き取って墓に葬られるであろう。わたしがこの所にくだす災いのどれも、その目で見ることがない。」」(22:19-20)というものでありました。ヨシヤのような信実な信仰を持ち、偶像除去の改革を行い、国を正しい道に引き戻そうとした王が現れても、その民の罪は、一度徹底的に裁かれねばならないほど重い事実が、明らかにされています。ヨシヤ自身は、祖先の数に加えられ、「安らかに」死ぬことが約束されています。これは、ヨシヤ王の時代に、その様な恐るべき裁きがなされないという安心を告げる、慰めの言葉です。

しかし、この預言にもかかわらず、ヨシヤは、メギドの戦いで戦死(前609年)した事実が23章29節に報告されています。バビロンの勢力の拡大を恐れていたエジプトの王ファラオのネコは、アッシリアを助けるためにパレスチナを通って進軍した時、ヨシヤはこれを阻止しようとして敗れ、メギドで戦死したわけです。それは、パレスチナにおける独立国家を建設しようという、彼の企ての挫折を意味します。ヨシヤの政治家としての野望はこれで潰え、彼は死にますが、彼は自分の時代に国の滅亡を見ないですんだという意味で、やはり「安らかに」死ぬというフルダの預言は真実であったといえます。

ヨシヤは、23章に見られる数々の偶像除去による神殿改革を断行しました。その改革の業績は、次の3点に要約できます。第一は、エルサレム神殿からすべての異教的要素を排除し、祭儀をヤハウエ礼拝のためのものと純化したこと(列王記下23:4-7,10-14、申命記7:5,12:2-3)、第二に、エルサレム以外の地方聖所をすべて廃止し、祭儀をエルサレム神殿に限定する祭儀集中をおこなったこと(列王記下23:8-9、申命記12:5-14)、第三に、ヨシヤはこれらの改革を、ユダ国内に止まらず、当時アッシリア領であったベテルやサマリアにまで拡大したこと(23:15-20)を挙げることができます。このように、律法の書による信仰覚醒を促す努力をしました。「しかし、マナセの引き起こした主のすべての憤りのために、主はユダに向かって燃え上がった激しい怒りの炎を収めようとなさらなかった。」(23:26)と言われています。そして彼の後継者たちは、この預言を避けえないような、彼の改革を否定し偶像への道に逆行する歩みをしています。民の信仰の真のリバイバルは、偉大な王一人の覚醒によって起こるほど、容易なものでないことを思わされます。しかし、彼の改革事業の中で発見された律法の書が、将来の希望として残りました。しかし、彼の同時代を生きたエレミヤについて、列王記に記述はないし、エレミヤも、ヨシヤ王について彼自身の筆になるものの中での言及がありません。エレミヤがヨシヤ王を尊敬し、その改革を支持したことは、間違いない事実であろうと思われます。それは、その後継者の時代に、エレミヤがその預言者としての職務を担い、その反動に対し警告を発し、重要な働きを果たしていることからも明らかです。しかし、エレミヤのヨシヤ王の業績に対する沈黙には、重要な意味が込められています。それは、改革の土台であった律法が、あるグループの中で新しい正当主義の土台となり、その結果、律法さえ守っていれば、という安易な自己満足主義に陥り、常に新しく、挑戦的である神の言葉に対して、民を盲目にする危険を秘めていたからであると思われます。一つ間違えば、律法もまた、物心崇拝以上の何物でもないものに、変えられていくからです。

その意味で、次のエレミヤの言葉(エレミヤ書8章8-9節)を深く心に刻み込む必要があります。

どうしてお前たちは言えようか。
「我々は賢者といわれる者で
主の律法を持っている」と。
まことに見よ、書記が偽る筆をもって書き
それを偽りとした。
賢者は恥を受け、打ちのめされ、捕らえられる。
見よ、主の言葉を侮っていながら
どんな知恵を持っているというのか。

旧約聖書講解