列王記講解

26.列王記下13:1-25『イスラエル王ヨアハズ-ヨアシュの時代』

オムリ家に対する革命によってイエフが王に即位(前845年)した時代、ダマスコではハザエルが、ベン・ハダド一世を暗殺して王位についていました。このハザエルは、イエフとその後継者であるヨアハズとヨアシュにとって不倶戴天の敵となりました。イエフの子ヨアハズが、イスラエルの王位についたのは、前818年頃と考えられますが、彼の在位の中頃、前805年にアッシリアのアダド・ニラリ三世が西進し、イスラエルを恒常的に脅威にさらしていたダマスコ(アラム)を包囲し、屈服させました。それにより、アラムの勢力は弱まり、イスラエルを圧迫する余裕をなくしたため、イスラエル王国は平和と安定を手にすることができました。それ故、ヨアハズの後を継いだヨアシュ(前802-787年)、さらにヤロブアム二世(前787-747年)の時代に、イスラエル王国は最後の繁栄を享受することになりました。しかし、それは見かけ上の繁栄に過ぎませんでした。ヤロブアム二世は、実に41年の長きにわたって王位を保ち、ハマテの入口から、死海に至るまでの領土を回復し、アラム人、アンモン人、モアブ人に奪われていた領土も回復することができ、経済的にも国家は躍進し、交易と産業が発達しました。この結果、富裕な階層が成立し、彼らの豪奢な生活ぶりはアモス書の中に描かれています。アモスは南のユダ王国出身の預言者ですが、北王国でその預言者としての活動を行い、その富裕な階級の抑圧や搾取、不正な取り引き、罪なき者を抑圧し、賄賂を受け取って貧しい者を門(裁判)で退けてしまう行動を、主の公義(ミシュパート)、正義(ツェダカー)を踏みにじるものとして、厳しく断罪しました(アモス5:7、同10、同12)。イエフ王朝は、ほぼ100年間にわたってイスラエルを支配し、イスラエルの最も長命な王朝となり、その繁栄を謳歌しますが、それはイスラエルを悩ませたダマスコをアッシリアが支配したために訪れた繁栄、安息に過ぎず、そのアッシリアの勢力がやがてイスラエルに対する致命的な脅威となって襲い掛かり、その繁栄と安息の時代を終わらせることになります。

列王記下13章1-12節は、イスラエルの王ヨアハズの時代(前818-802年)についての出来事が報告されています。ここには、異なる二つの資料からの報告が記されています。3節と7節は、アラムの王によるイスラエル王国の蹂躙を述べています。しかし4-6節には、主がイスラエルに「一人の救いの手を与え」、人々が、アラムの支配から解放されたと述べられています。

この矛盾した二つの資料は、一つの重要な事実を伝えようとしています。それは、イエフによって始められたイスラエルからバアル宗教を一掃する改革が、僅か一代限りで終わり、その子ヨアハズの時代には、再び「ヤロブアムの罪」が復活したため、「主はイスラエルに対し怒りを燃やし」(3節)、アラムの王によってその罪を裁こうとされたのに、彼がイスラエルの最後の王とならなかったのは、「主をなだめる」ヨアハズの(祈り)を主が聞かれ、忍耐をされた結果であるという事実です。しかしその様な神の救いが与えられたのにもかかわらず、イスラエルはまた歩むべき道からそれた罪深さ(6節)を強調しています。つまりこれら二つの異なる資料は、神の忍耐による救いと、イスラエルの罪深さを物語るものとして、ここに置かれています。これらの資料は、紀元前587年のバビロン捕囚によるユダ王国の崩壊から歴史を見直すために用いられています。

5節の「救いの手」が誰を指すのか三つの見解があります。

第一は、アッシリアの王アダド・ニラリ三世だとする説です。彼は前述のとおり、前805年にアラムを攻め、それは、アラムに苦しめられていたイスラエル王国にとっては、救いとなった、とする説です。

第二は、ヨアハズの孫ヤロブアム二世とする説です。彼の時代、アッシリアが一時的に衰弱し、イスラエル王国もユダ王国も領土を拡大し、繁栄を謳歌し、14章27節には、「主は…ヤロブアムによって彼らを救われた」といわれていることを根拠に、この説を唱える人がいます。しかし、ヨアハズの時代を説明する描写に、その孫のことが登場するのは時代錯誤として受け入れることができません。

第三は、預言者エリシャとする説です。3-6節の記述は、「イスラエルの罪→敵の手に渡す神→イスラエルの訴え→イスラエルのために介入する神」を描く、士師の時代の申命記的な書き方に似ており、登場を期待されるカリスマ的指導者像は、申命記26章7-9節の人物像と重なり、モーセを原型とする預言者像を思い起こさせます。これまでエリシャは、カリスマ的預言者としてしばしば描かれてきたことを考えますと、この描写に一番良く当てはまる人物は、エリシャであると言うことができます。14-21節に、死を迎えるエリシャの物語が記されていることを考えますと、やはり、「一人の救い手」はエリシャだと考えるのが一番自然です。

5節の「自分たちの天幕に住めるようになった」は、慣用句で、平和が国に訪れたことを表しています。

6節の「ヤロブアムの罪」の問題は、これまでと違ったその罪の根深さを物語るものとして注目に値します。それは、これまで「ヤロブアムの罪」は、イスラエルを治める王の信仰、宗教性に対する罪として告発されてきました。しかしここでその告発を受けているのは、王ではなく「イスラエルの人々」です。イエフによるイスラエルからバアル宗教を一掃する改革(10:26-27)がなされたにも関わらず、その子の代で逆戻りし、イスラエルから偶像への思いを断ち切れなかった事実は、その罪が今や民のレベルまで深く浸透してしまっていることに原因があることが明らかにされています。内なる心の包皮から、その罪を取り除くように、内的な信仰の改革まで深くなされないと、その罪から本当に解放されることがないことを、これらの事実が示しています。

前853年のカルカルの戦いに、アハブ王が派遣した戦車は2000台でしたが、ヨアハズの軍隊における戦車は僅か10台であったといわれています(7節)。このときの軍隊の弱体ぶりを物語るものとして、ここに報告されています。

10節以下には、ヨアハズの子ヨアシュの治世における報告が記されています。その治世の特徴は、「彼は主の目に悪とされることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪を全く離れず、それに従って歩み続けた。」ということ以外、何も報告されていません。イエフの改革を、子だけでなく、孫も水泡に帰すような人物でしかなかったことが明らかにされています。

14節以下には、エリシャに関する二つのエピソードが報告されています。第一は、国際政治に関与する者として、その歴史を預言する象徴的行動に関するものです(14-19節)。第二は、奇跡の担い手としてのものです(20-21節)。

エリシャのここでの登場は、イエフによるクーデター以来です(9章1節)。イエフの在位は28年、ヨアハズの在位は17年ですから、ほぼ50年ぶりの登場ということになります。長い間、エリシャは沈黙していたことになります。しかしその沈黙を破って、エリシャが神の民の織り成す歴史に再登場することは、緊張を生み出し、人々に注意を喚起することになります。イエフはバアルをイスラエルから一掃しましたが、「金の子牛」を取り除かず、その改革は中途半端に終わり、アラムの王ハザエルのイスラエル侵犯を許すことになりました。しかし同時に、エリシャは、神がイエフの子孫を四代に渡り王座につくと約束しました。にもかかわらず、イエフ王朝の歴史は、既に見たとおり、イエフ改革を逆戻りさせる歩みをし、救いと困難が同居する状態でありました。神は、王と民への約束を守ろうとされますが、もう一方で、罪にとどまるイスラエルを叱らねばなりません。エリシャの再登場は、約束と怒りの緊張の一こまとしてここに報告されています。エリシャの再登場により、そのままでは滅びるほかないイスラエルの滅びを、先に延ばされることになりました。しかしほぼ50年ぶりに登場するエリシャは、「死の病」を患っています。

エリシャを通して、神の祝福を聞いたイエフ王朝にとって、この祝福の担い手を失うことは、彼に聞き、神の御言葉に堅く立つ歩みをしていなくても、危機を意味することをヨアシュも認識していました。それゆえ彼は「死の病」に伏すエリシャを訪ね、エリシャがエリヤの昇天に際し言った、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」という言葉(列王下2:12)をエリシャに向かって述べ、彼の上にとどまる霊の祝福が、イエフ王家から過ぎ去らないように願います。それは願いというより、将来の不安を覚えるものの悲しみ・嘆きというべきものです。御言葉に堅く立ち、信仰に生きず、政治家としても指導力を持たない王が、アラムの圧迫の中で、対処の仕方を教えてくれる者を失う悲しみを表しているのでしょう。

このように嘆くヨアシュに対して、エリシャは、弓と矢を取るよう指示し、その手を彼の手の上に置きました。その「手」は、エリシャの意思の働きを意味していました。手を乗せることによって、エリシャが王の行為の中に働くことになます。エリシャは、ヨアシュに矢を射るように命じます。王が射る矢は、イスラエルを圧迫する「アラムに対する勝利の矢」であり、アラムへの勝利を意味していました。エリシャから再度射るように命じられたヨアシュは「三度」射て止めてしまいました。三度で止めたヨアシュに対して、エリシャは怒りを表しました。それは王に対する怒りで、勇気と決断力、何より信仰心の欠如への怒りを意味していました。エリシャは、「三度」で止めたヨアシュに対し、アラムに対する勝利は三度で終わると告げます。イスラエルの運命は、預言者を通して示され、神の言葉によって決まります。あの差し出された器の数だけ油が注がれた奇跡(列王下4章)同様、御言葉に聞き、その命令を実行しつづける者に、神は祝福を与え続けられます。神の言葉に聞き続けることのない信仰の欠如は、その祝福を自らふさぐことになるとの警告がここに語られています。

エリシャに関する第二のエピソード(20-21節)は、生きている時だけでなく、死んだ後も、エリシャには命を与える神の力が働いていたことを示す奇跡に関するものです。預言者とその言葉に触れる者に関する復活の奇跡は、エゼキエル書37章に「枯れた骨の復活」に関する物語にも見られます。そしてこれらの言葉は、イエス・キリストの復活とその言葉に生きる者への、神の約束の恵みを教える出来事につながっていくものとして読むことができます。

最後に、エリシャの象徴的行動によって示されていた、国の再生が示されます(22節以下)。23節の「今に至るまで」の歴史的回顧は、捕囚期の申命記史家による解釈でしょう。前806年のアラム王ハザエルの死、アッシリアの王アダド・ニラリ三世による、前802年と796年におけるアラムへの攻撃は、アラムの短い繁栄の終わりを告げるものでした。ヨアシュはこれにより領土を取り戻すことになり、イスラエルはヤロブアム二世の繁栄の時代に入っていくことになります。

旧約聖書講解