列王記講解

21.列王記下4:8-37『シュネムの婦人』

この物語は、子供の蘇生を主題としている点で、列王記上17章17-24節のエリヤによる子供の蘇生物語とよく似ています。列王記の記者は、この物語を、直前にある預言者の妻を貧困から救う油注ぎの奇跡と共に、エリシャがエリヤの後継者として、エリヤの二倍の霊を受け継ぐものとして、エリヤと同じ力を持ち同じ奇跡を行い得る預言者であることを証明するものとして、記しています。

この二人の預言者によるこれらの奇跡物語が明らかにしていることは、生命と祝福がただ主なるヤハウエからのみ来る!バアルからではない、ということです。そして、主なる神が民に望んでおられるのは、主の預言者を尊敬し、彼らの教えに従順であることです。それを列王記の記者は明らかにしようとしています。

シュネムは、カルメル山から東方24キロ程のモレの丘西南斜面にあるエズレル渓谷の近くにあり、旅行者が利用する主要道路から遠く離れていないところにありました。エリシャはこの町を度々訪れていたのでしょう。ある日、この町にいる裕福な婦人が彼を引き止め、食事に招待したことがきっかけとなり、それ以来エリシャはそこを通るたびに、この婦人の家を立ち寄って食事をするようになったといわれています。

シュネムの婦人は、裕福なだけでなく、敬虔なことでその地方で有名になっていました。彼女はその敬虔さのゆえに、エリシャをしきりに食事に招き、もてなしをしましたが、罪人や、主の義に生きることに程よく熱心な人であっても、預言者に極めて接近することは危険なことと見なされていました。なぜなら主はそのような無遠慮な態度に何らかの罰を加えるであろうと考えられていました。しかし真の敬虔をもって預言者と親しい交わりを持つ者は、祝福と繁栄を招くと期待されていました。そうした観念には、聖書本来の教えから逸脱した律法主義的なご利益信仰が多分に働いていたと思われますし、彼女の敬虔さにもその当時の考え方が全然影響を与えていなかったとも思えませんが、そのような観念を超える純粋な信仰から出る敬虔さも見られます。

彼女が夫に「いつもわたしたちのところにおいでになるあの方は、聖なる神の人であることが分かりました。あの方のために階上に壁で囲った小さな部屋を造り、寝台と机と椅子と燭台を備えましょう。おいでのときはそこに入っていただけます。」(9-10節)と言って、エリシャの働きを助けるためにそのような部屋を用意したのは、尋常では考えられないほどの破格の行為でありました。

当時のパレスチナ地方の家は平屋根で、余分に人を宿泊させる時は、屋根にテントを張るか、仮の木造の部屋を造りしました。ですから、「階上に壁で囲った小さな部屋を造り、寝台と机と椅子と燭台を備える」事は、永続的にいつでも利用できる部屋を提供しようというものです。

エリシャは、この破格の親切をもってもてなしてくれるシュネムの婦人にその報いをもって応えたいと考え、従者ゲハジを通じて、このように心を砕いて仕えてくれる彼女に、何をしてあげればよいか訊ねていますが、彼女は、「わたしは同族の者に囲まれて何不足なく暮らしています」と答え、その親切の見返りに特別なものは何も望んでいないことを明らかにしています。この彼女の言葉は原文を忠実に訳しますと、「私は私の親族の中で暮らしております。」となります。それだけで十分幸せであり、それ以上のことは何も望んでいないという彼女の意思がこの言葉に表されています。彼女はその答えによって、それに対する何らかの報いを期待してこの行為をなしたものでないことを明らかにしています。

そうであるなら一層、真の敬虔に応えるべく、エリシャは、「彼女のために何をすればよいだろうか」問い、ゲハジから、「彼女には子供がなく、夫は年を取っている」事実を聞かされ、これに応えようとします。

不妊は神に呪われた結果であると考えられていましたので、妻にとって最大の恥辱でありました。だからこの点でエリシャに願うことが出来ましたのに、彼女はその願いを出すことはしませんでした。彼女はそのような人生を呪うこともなく、ただ親族の中で幸せに暮らせていることに満足し、主に仕える喜びを「聖なる神の人」に仕えることによって見出した幸いに満足し、それで十分と考えていたのです。

しかしエリシャは、彼女を呼び、「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱いている」という約束を与えました。子供の約束は、不妊の女と呼ばれている人にとって、最大の祝福となるものであったからです。旧約聖書においてそのような約束を与えられた不妊の女性は、彼女の前に、アブラハムの妻サラ(創世記18:11-15)とエルカナの妻でハンナ(サムエル記上1:4-8)の二人だけです。彼女に与えられた約束の言葉は、サラの場合と似ていますが、サラはその約束を聞いた時、信じられないで「笑った」といわれますが、彼女も「いいえ、わたしの主人、神の人よ、はしためを欺かないでください」と答え、エリシャの約束の実現を信じることが出来ない態度を示しています。しかし、サラのようにその言葉を笑う不敬虔な態度ではなく、もし実現しなければ、エリシャの預言者としての完全性に傷がつくことを心配する思いやり、過度な期待を自ら戒める抑制のきいた態度です。

しかし、エリシャの預言どおり、シュネムのこの婦人から翌年男の子が生まれました。エリシャの預言の成就は、エリシャが主からの真実の預言者であることを示すものとなります。彼女にとってもその恥を取り除き、大きな喜びを与えられることになり、希望と喜びの中でその与えられて子供の成長を喜んでいたことでしょう。

その子は母親の十分な愛情を受け、またよき躾も与えられ、立派なよい子に成長していました。父親と共に刈り入れを見に行く、父親思いの子でもあったようです。しかしある日刈り入れをする人々と共に父のところにその子が行った時、強い陽射に打たれて日射病になったのでしょう。突然、「頭が、頭が」といって、父親の前で倒れてしまいました。父親はこの子をどんなに母親が愛し、手塩のかけて育て、その将来を楽しみにしていたかを知っていましたので、ぐったりと倒れた息子を母親のところに直ちに抱きかかえて連れて行くよう従者に命じました。それは、この子の命がひょっとして助からないのではないかという直感がしたからでしょう。従者は急いでその子を抱きかかえて母親のところに直行しました。そして、母親の膝の上で抱きかえりますが、身動きすることなく、昼ごろ死んでしまいます。

気丈な彼女は、死んだその子を神の人エリシャの部屋に連れて行き、エリシャの寝台に横たえ、戸を閉めて出てゆき、それから夫を呼び、従者一人を連れてエリシャのところに行く許可を得ています。彼女が死んだ子をエリシャの部屋に連れて行き、戸を閉じたのは、子の死を秘密にするためです。恐らく子の死を夫にも彼女は話さなかったのでしょう。それは23節の「どうして、今日その人のもとに行くのか。新月でも安息日でもないのに」という、夫の言葉から窺えます。新月や安息日はイスラエルの祝祭の日に当たり、仕事をしないため(アモス8:5)、それらの日を預言者の訪問などに当てていました。その日でもないのに預言者のところに行くことに夫が不思議に思ったのは、子が死んだことを妻から聞いていなかったからでしょう。彼女は夫の言葉にもかかわらず、「行って参ります」といって、カルメル山にいるエリシャのところまで24キロの道のりをひた走ります。

エリシャは、遠くからシュネムの婦人がやって来るのを見、従者ゲハジに彼女に家の様子に変わりないか訊ねるよう命じます。彼女は、「お変わりありませんか、御主人はお変わりありませんか。お子さんはお変わりありませんか」とゲハジに訊ねられ、「変わりはございません」と答えた、といわれています。「変わりはございません」の原文は、「シャローム」というヘブル語のみで、その答えは、「平安です」というものです。

しかしシュネムの婦人は、「山の上にいる神の人のもとに来て、その足にすがりついた。」(27節)といわれています。彼女は、ただ神の人エリシャの人格を通して働く主の力により、子の誕生が与えられたので、この息子の死の問題もまた、エリシャの人格を離れて解決は与えられないとの思いで、エリシャに近づいています。

エリシャは、彼女のしぐさを見て、直ちに彼女が深い苦しみを抱いてやってきたことを察知しますが、「主はそれを私に隠して知らされなかったのだ」といって、生起した全てに自分の関わりを否定しています。

シュネムの女は、慎ましく、エリシャに子供を与えてほしいと願ったことは一度もありません。しかし、エリシャは彼女に子供の誕生を約束し、それが実現し、彼女は、この子供の誕生を通して多くの喜び希望を与えられました。それが自ら望まず与えられたものであり、その喜びの日々が大きければ大きいほど、失う悲しみ怒りは大きくなります。その悲しみ怒りを神に向けることは人に許されていませんから、預言者に向けて、「わたしがあなたに子供を求めたことがありましょうか。わたしを欺かないでくださいと申し上げたではありませんか。」(28節)と抗議しました。

この抗議を受けて、エリシャは、シュネムの婦人の子が死んだことを理解しました。それゆえゲハジに、自分の持っている杖を持って行かせ、その杖を死んだ子の顔の上に置くように命じます。モーセは杖を使って奇跡を行いました(出エジプト4:1-4,17:8-13)。エリシャは、自分の杖をモーセの杖のように用いようとしたのでしょう。モーセは「神の人」、ヨシュアは「従者」と呼ばれましたが、ここではエリシャが「神の人」と呼ばれ、ゲハジが「従者」と呼ばれています。ここでは、その杖の用い方と共に、エリシャはモーセのような存在とみなされています。

ゲハジはその杖を持って、途中誰にも挨拶せず、死んだ子のところに行くよう命じられ、その通り実行しますが、子はそれによって蘇生しません。その間、その母親であるシュネムの婦人は、「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしは決してあなたを離れません」と言ってエリシャの下を離れません。この言葉は、かつてエリシャがエリヤに向かって語ったものと全く同じであり、その下から離れようとしなかった行動も同じです。

そしてエリシャもまた、エリヤがあのサレプタの女の息子を蘇生させた時のようなしぐさで(列王記上17:21)、シュネムの婦人の子供を蘇生させました。この子供の死は、エリシャの預言者としての権威と力を失墜させてしまいかねない危機を意味していました。シュネムの婦人は、自分の子の死が人に知れ渡らないように秘密のうちに行動しています。エリシャもまたこの蘇生奇跡を、死んだ子を寝かせてある自分の部屋の「中に入って戸を閉じ、二人だけになって主に祈って」行っています。この奇跡の業が、主に祈ることによりなされたことは、エリシャの力によるのではなく、主の業としてなされたことを明らかにしています。しかし、エリシャがそのように祈り、それが実現したということにおいて、彼が主の預言者であることも同時に明らかにされています。業の秘密性は、この出来事が信仰をもってのみ受け入れ得るものであることを示しています。

エリシャは、蘇生した子をシュネムの婦人に還すにあたって、「あなたの子を受け取りなさい」と述べています。これは、その命が主によって与えられたことを意味し、その新しい命ある子を主から受け取りなさいという招きを意味しています。彼女はエリシャに近づき、その感謝喜びを彼の「足元に身をかがめ、地に平伏し、自分の子供を受け取って出て行った」と記されています。しかし、サレプタの女のように、「今私はわかりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」という告白がありません。敬虔な人として評判の高かったシュネムの婦人が同じような告白をしていないのは、彼女に感謝な思いや預言者への信頼が弱いからでありません。「地に平伏し」という行為が、それ以上の主への礼拝行為を表し、ここには記されていなくても当然、預言者に同じような信頼を寄せていたことを示しています。そして、彼女はエリシャから自分の子供を受け取って日常の生活に戻っています。この物語を通して語られるメッセージは、人の命を支配し、人の命の上に働いているのは、バアルではなく主なるヤハウエであるということです。そして、主なるヤハウエの力は、エリシャを通して働いていることを認めるシュネムの婦人の信仰、主に信頼する信仰が光り輝くものであることを示しています。

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